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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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 健康とは、体が何の問題もない状態であることではない。
 体はもちろんのこと、その人の心の面でも、またその人をとりまく周囲の状態がいいように整っていることを、健康という。
 
 と知ったのは、下記の文がスタッフが持っていたある資格のテキスト(★)に記載されていたからでした。
  
WHO憲章(前文)
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」
 
ここまでの太字部分:WHOホームページより引用
 
 「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義しています。これは、健康とは

 ①単に身体的に病気や異常がないということではなく、
 ②心理的・精神的にも満たされていること、
 ③個人を取り巻く環境も好ましい状態に保たれていること、

という意味です。

青太字の部分:スタッフが持っていたある資格のテキストより引用
(★)2021年版 ユーキャンの保育士速習テキスト(下)
子どもの保健 1、子どもの健康と保健の意義 p.74 より


 最近は、ラヴニールの一般の方向けの資料を使って説明をするときに、「健康に過ごすことができるよう」、という文言を使っている気がします。
 WHO憲章の前文に則るのならば、体の調子だけでなく、一人を中心にみんなで一人の健康を考えていこう。そしてそれは、一人でなくみんなの健康にもつながる、と言えるのかもしれません。
 
 これを子どもに当てはめると、「子どもはその子なりに生きる喜びにあふれた生活を送ることが健康であり、すべての子どもには健康い生きる権利がある」ととらえることができます。
 
 と、同じテキスト(★)には書かれており、これは子どもに限らず、誰にでも通用するなと思いました。
  
 健康ってものすごく簡単に言うけれど、とっても奥が深く、簡単に使っていいのか!?と思うほど難しくもあることなんだなと、痛感します。
  
「うちの子は健康そのものなんですけどねぇ。どういうわけか、学校だけは嫌がるんです。どうにかしてほしいもんなんですけど・・・」
 
 といった内容の相談を、よく見聞きします。以前なら、どうしても嫌な理由があるんですかねぇ。その理由はまだ本人にはわかっていなかったり、どうしても教えたくないのかもしれませんね。というぐらいにしか思いませんでしたが、今であれば、WHO憲章に則った意味で考えたら、
 
「う~ん、お子さん、本当に健康ですか? お子さん、『健康に』生きる権利を全うされてますか?」
 
 なんて、粗探しをしてしまいそうです(コワイコワイ(汗))
 極力しないように心がけているつもりですが、言うのはもちろん、もし顔に出ていたりしたら、皆さん、遠慮なくご指摘くださいね。 
 
 
  
 ひとりひとりが生きる事を喜びとし、健康であるためには、どうするのがいいか。どうしていったらいいか。
 そのために、フリースクール「ラヴニール」ができることは、いったい何だろう?
 
 問い続けていった先に、答えは見つかるのでしょうか!?
 
 
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学校に行けなかったあいだにずっと気になっていたのが、「学校に行けないと将来が終わる」ということでした。だから今の学校に行けない自分はダメで、学校にまた「戻れる」ようにないとダメだと、ずっと思っていました。
 
 そんな感じで無理をしてでも学校に行かなきゃと思って、とりあえず人が少しは減る土曜の午後などに、行ったことがあります(当時は今のような完全週休2日ではありませんでした)。
 この情報は、親にはもちろん、当時私が通っていた支援施設(と、ここでは言っておきます)にも伝わっていました。
 
 支援施設では、時々「学校に行ってみる気はないの?」と尋ねられることがありました。「学校に戻れるようになります」が謳い文句の場所でしたので、どうにかしてでも学校に気もちを向けようと必死だったのでしょう。となると、ほんの少しでも学校に行けるようになった私は、「絶好のターゲット」だったのかもしれません。
 
 学校に少しずつ行けるようになってから、尋ねられるのではなく、「次は○○してみてね」に変わりました。
 
 次はテストを受けに行ってみて。
 次は1時間だけ授業を受けてみて。
 次は、次は・・・
 
 学校に行って担任に会って帰ってくるだけで、私はただ学校と自宅を往復した以上の疲れを感じていました。
 
 そのうち、私は土曜に学校に行くのもやめました。テストも、受けたこともあったけれど、受けなくなりました。
 
 親から言われたのは、
 
「せっかく学校に行けるようになったのに!」
  
 支援施設では、何で学校にまた行かなくなったのかと尋ねられ、私は疲れる、しんどい、という理由をあげたかと思いますが、

「でもほら、学校に行けたんだからさ。またがんばって行ってみようよ」
 
 誰も、自分のことなんてわかってくれないんだなと思いました。
 学校に行く。ただそれだけのこと。周りはみんなそう思っていたかもしれません。
 そこに、どんな自分の気もちがあるのか。今、学校に対する気もちはどうなのか。学校でなくても、今、自分の気もちはどうなのか。
 
 このあたりを、誰も聞いてくれませんでした。
 学校にほんの少し行くだけでも、私は本当に大変だったのに、誰もそれについて、「がんばったね」「がんばってるね」とは言ってくれませんでした。
 
 今、目の前にいる私。それが、私。それが、今最善の私。
 ここまでがんばっている私を、誰も認めてくれないんだな。
 
 そこに、「せっかく学校に」の発言があって、ああ、学校というフィルター越しでしか、私を見ていないんだ。学校に行っている私に価値を見出していたんだと、寂しくなりました。
 
 
 
 今だからこうして文にできますが、私という軸ではなく、学校という軸が基準になっていたんだなと、自分自身にも、周囲にも感じます。
 
 今目の前にある姿を、丸ごと受け止める。
 曲りなりに親になってわかったことですが、それって本当に難しい。
 難しいけれど、まず、目の前にある存在そのものを大切にする、せめてしようとすることが、何においても最優先じゃないかなと、ふと感じました。


 今の私を認めてよと思ってきた私が、果たして今の子どもの姿を受け止めているだろうかと振り返りつつ、つい
「そうやって余計なことするから時間かかるの! 余計なことはしない!」
「寄り道しない! さっさと歩く!」
「同じテレビばかり見ないで他のことも考えて!」
なんて。
  
 えらそうに書いてしまいましたが、私もまだまだ、理想には程遠いです。
 


 私は、食べ物の好き嫌いに関しては「アレルギーなど『どうしても食べられない事情』以外は認めない」という鬼母(笑)です。なので、子どもが苦手としている野菜でも平気でメニューに取り入れています。
 
 そんなあるとき、
「お母さん、今度、クラムチャウダーしてよ」
 とリクエスト。クラムチャウダーには、貝を使います。貝は、私の苦手とする食べ物のひとつ。ものによりますが、特にあさりが苦手です。このあさり、子どもは結構好きで、食べることができます。
 
 一応、つくるだけならつくることができるので、リクエストがあった数日後、クラムチャウダーをつくり、私の分の中にまざっていたあさりをひとつひとつ取り上げては、
「あの~、お母さん、あさり嫌いなんですけど」
と、子どもに宣言して子どものお皿の中に入れようとすると・・・
 
「食べなさ~い」
 
と、満面の笑みで拒否されてしまいました(笑)
 当然ですよね。人には嫌いなものでも食べろって言うくせに、自分ばかりずるいよ! ってなりますよね。
  
 でも、このおかげで克服しつつある?食材もあります。
  
 子どもたち、干しぶどうが大好きなんですが、私は苦手で。パウンドケーキに黒いぶつぶつがあって、やったー! チョコチップだー! と思ってかじりついたら干しぶどうだった、あの悲しさといったら。
  
 ただ、(ただでさえ小さいのに)小さく刻んでサラダなどに混ぜ込んでしまえば、意外と平気なことがわかって、苦手は苦手だけど、あさりよりはマシになりました。
 たぶん、干しぶどうそのままで出されても、数粒ぐらいなら食べられると思います。これは、「干しぶどう嫌いを克服した」と、考えられるかもしれません。
 
 
 
「不登校をどうやって克服したんですか?」
 
 たまに尋ねられます。が、返答に困ってしまいます。
 
 不登校を克服したよ! と言う方もいるとは思います。けれど、その克服の仕方って、これまた人それぞれ。個人の感覚ですが、なんとなく、
 ・学校に行けなかったのが行くようになった。
 ・同上、ただし、進学のタイミングで。
 ・学校に行けなかったころを振り返れるようになった。
 ・何らかの形で「学校」に関わる必要がなくなった。
 
などなど。
 克服することで次に進めたり、気もちの整理をつけられることもあると思うので、人によって克服したというのであれば、それを否定するつもりはないです。人それぞれの感覚ですしね。
 
 ただ、私の場合は、困ってしまいます。
 学校に行けなかった時期を過ごし、その後学校に行った時期がある。
 学校に行けなかったころを振り返ることもできるし、お話しすることもある。
  
 こういった姿が、他の方から見れば克服したと見えるのかもしれませんが、私としては克服したというわけではなく、「ずっといいお友達のような感じ」。
 振り返るそのときそのときで、振り返り方が微妙に変わっていたり、思うことが変わったりするので、「終わった!」ではなく、「振り返り方が変わったなぁ」という気もちになるためです。
 
 なので、本当に申し訳ないのですが、「克服されたんですね!」と言われても、う~ん、となってしまいます。
 
 言えそうな雰囲気だなと思ったときには、
 
「あはは・・・、克服したとは思っていなくて、今でも仲良く付き合っている感じですよ」
 
と言ってしまうこともありますが、それでも、
 
「でも! 今こうして、立派に活動されているじゃないですか~」
 
と言われることもあって・・・。う~ん、別に立派に活動しているつもりもないんだけど・・・、と、素直に思えなかったり。
 
 他の方から見ると、学校に行かなかった経験をすっと話せることは、克服したと映ってみえるのかな、と、思うことにしています。
 
 人それぞれ、ということなんです。過去に学校に行かなかった経験がある全員が、克服したと思っているというわけではないよ、と。もちろん全員が「お友達だと思って付き合っているよ」というわけでもなく。
 
 それぞれが思うことについて、「いやいや、あなたはこうでしょ?」と、勝手に人のことを決めないように・・・、自分への戒めです(汗)
 
 

漫画の、とあるシーンが好きで、何度も繰り返し見ちゃうんです。
 
 るろうに剣心の15巻、第百二十六幕「巨人対超人(前編)」のワンシーン。
 才槌老人、破軍の不二、比古清十郎のやりとり。

「俺は破軍の不二という男と 話をしたいんだ」
という比古清十郎に対して、
「お前は儂の言う事だけを聞いていればよいんじゃ!」
と、不二に言う才槌老人。それでも構わず、
「だがそろそろお前自身の意志で 『自分の闘い』を選んでみちゃあどうだ」
と不二に進言する、比古清十郎。
 
 かなり端折っていますが、このシーン、大好きなんです。
 
 比古清十郎が、巨体で誰からも恐れられていた不二、そして才槌老人の言うがままになっていた不二のことを、見た目など関係なく「ひとりの存在」として認めているこのシーン。好きなんです。
 
 (アニメでは比古清十郎の声を、ガンダムのシャア・アズナブルやコナンの赤井秀一でおなじみの池田秀一さんがあててらっしゃるので、これがまた、いいんですよぉ、と、余談)
 
 とある先に出かけたとき、その方は親子でいらしていました。
 お子さんも学校に行きにくい時期があったとのことで、親の方は学校に行けない・行かないことについて関わろうとする人たちの場にも、親子で一緒に、かなり熱心に参加されています。
 
「あんな学校なんて行かせないほうがマシ!」
とおっしゃるので、その方にとって学校は「あまり信用できないところ」とのことだったのでしょう。補足しておくと、学校全部についてこう言っているのではなく、実際に見て回られて「あの学校はがんばっていると思う」とおっしゃることもあったので、たまたま、この方のお子さんが行かれていた学校が、親の方にとっては信用できなかった、ということなんだと思います。
 
 ただ、そのときの話し方が、

「○○ちゃんは、あの学校で本当にひどい目にあったの」
「○○ちゃんは、先生に対して不信感をもっていたから」

と、ちょっとひっかかりました。
 ○○ちゃんが先生に対して不信感をもっていたのも、ひどい目にあったのも、本当なのだろうか? いや、本当にもっていたのかもしれないけれど、それを「本人から」聞いていないので、もしかして親御さんが勝手に推測していませんか? と。

 私としては、○○ちゃんがどう思っていたのか、○○ちゃんの言葉で知りたいのに。話せないなら、それはそれで仕方がないけれど、本当のところは○○ちゃんしか知らないのに。なのにどうして、自分の子どものことを、わかったように言うのだろう? と。

 似たようなことは、先述の親子とは別の親子の方が出ていたシンポジウムでもありました。
 親の方は、
「学校でいじめられたのと、いじめがあったんじゃないかと尋ねても、先生も『知る限りはなかったように見えますが』ということで、信用できなくて。『そんなに自分が傷つく場所なら、やめておきなさい』と言ったんです」
 そうよね? と最後に同意を求めて、親の方の発言は終わりましたが、次にお子さんの発言。

「ごめん、それ、嘘。最初はそうだと思ったから、そう言った。本当は、いじめもあったかもしれないけれど、いじめ以外にもたくさんあって、何で行けなくなったかなんて理由はわからない。みんなにも、そう言ってた。でも、親があちこちで『いじめられた』って言い続けていて、撤回したくてもできなかったんだ」
 
 親の方とお子さんとの見解の違いに、「だよね~」と思ったことを覚えています。
 当たり前なことだけど、親子であっても、別の人格。思うことも同じとは限らない。だからこそ、本人も含むいろんな人から情報を得ることで、一面的にではなく、多角的に、立体的に物事を見る必要がある、と、個人的には学んだシンポジウムでした。
 


 私も、別のフリースクールや同業同士の集まりに出かけた先などで、「あれ? 今日○○さんは?」と尋ねてしまうことがあります。
 でもこれって、「数人セットで見ている」ということ。ひとりの人として見てないってことだよなぁと、改めて気がつき、反省中です。
 
 
 

今朝、何気なく携帯電話からネットニュースを見ていて、「あれ? もしかしてサッカーって、今何か大事な国際試合やってる?」と思うような記事がありました。
  
 そういえば最近、サッカーのニュースって聞かないな、と思っていましたが、たぶん「自分が気にしていないだけ」という結論に落ち着きました。以前は試合ごとにテレビ中継がないかと新聞のテレビ欄を穴が開くぐらいじぃっと見ていたし、国際試合も結構見ていました。
 そうか、以前に比べてサッカー自体を見なくなってしまったので、情報も自分にとってはあまり必要じゃなくなったんだ。「興味のあることだからたくさん情報を入手しよう」が、「たくさん報道されている!」と思い込んでいたのかもしれない。

 知ろうとしないと、情報って入ってこないものなんだ! と、当たり前のことかもしれないけれど、改めて気がつきました。
 
 「学校に行けない・行かない」ことも、これに似ているなぁと思います。
 見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「子どもの気もちがわからない」「学校に行かないって、たぶんこの子はどこかがおかしいとかではないと思うのだけど、どうしてそうなるのかがよくわからなくて」とおっしゃる保護者の方が、これまでに何名かいらっしゃいました。

 多くの場合、「学校」が当たり前に存在し、当たり前に通っていたのではないか、と思います。それでうまくく場合はそれでいいんですが、そうでない場合もある。多くの人にとっては何ともないことでも、一部の人にとっては、それが苦手なこともある。
 
 学校に行かない・行けない状態は、何か特別な事情があるというよりも、「誰でも、どの子でも起こりうる」と、今ではだいぶ認識はされているかなと思いますが、とはいっても、保護者の方自身が「学校」という道を通り抜けてきた以上、保護者の方自身が経験していないことに対する気もちを知るのは、とても難しいことだとも思います。
 
 では、そんなときはどうするか?
 簡単です、「尋ねてしまえばいい」んです。
 
 ええ、簡単なんですが、最初から気もちや理由の整理が明確にできていれば、すぐに答えが出てくるかもしれません。ところが、そうでないこともある。口に出して話せるほど自分の中で整理できていないことも考えられるし、親を余計に心配させてしまうかもしれない、傷つけてしまうかもしれないと子どもの側が推し量って、あるいは話すのが恥ずかしいというのもあって、尋ねてもなかなか話そうとしない。
 
 話そうとしないなら、それでOK。そこから無理に尋ねよう、話すようにさせようとせず、「今は整理ができていないのかもしれない」と、割り切って、話してくれるその日を待つことにしましょう。
 
 ・・・それでも、聞きたくてうずうずしますよね。また、「その日」は本当にくるの? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 
 ここからは私の経験談になりますが、私から両親への「その日」は、今でもきていません。学校に行かなくなったばかりのころは、手っ取り早くわかりやすい理由を言っていたような気がしますが、そこから時を経て思うことが変わり、もしかしたらこれが本当の理由だったのかも、ということにたどり着いた・・・、いや、着いていないかな? いずれにせよ、明確でもあいまいでも、私は両親に理由を打ち明けていません。
 
 一度、学校に行かなくなってあまり経たないころでしたが、母の知り合いでお子さんが学校に行きづらくなった方がいる、ということで、
 
「その人にさぁ、いろいろ気もちとかを教えてあげてくれないかな」
 
 なんであんたに言われて話さなきゃいけないのさ。と思ったことを覚えています。
 そのころの私は、学校に行かない・行けないことに対してものすごく否定的だったので、その否定していることを、何でわざわざ掘り起こさないといけないんだと。自分の意思で話すんならともかく、何で(親ではあるけど)他人に言われて話さなきゃいけないんだ、と。
 
 繰り返しになりますが、無理に理由を尋ねようとしたり、無理に話をさせようとするのは、避けてほしいなと思います。
 
 それでも! これも繰り返しになりますが、気もちをどうしても知りたい! そんなときには、「学校に行かなかった経験者が語るイベント」とかも、いいのではないでしょうか。
 対談形式、シンポジウム形式、講演形式、いろいろありますが、だいたい共通してるのは、学校に行け(か)なくなった経緯、行かなかった間に起こったこと・家族や周囲とのかかわり、その後現在に至るまで、あたりを盛り込んでいることでしょうか。
 
 自分のお子さんとは経緯は違うかもしれない、思うことも違うかもはしれないけれど、「もしかしてこうなのかな」と推測するポイント、思わず「そうそう!」とうなずくポイント、そして「我が家だけじゃないんだ」と思えるポイントが、演者さんが話す言葉のあちこちに隠れています。
 
 個人的には・・・、ごめんなさい、この手のシンポジウムなどを何度も聞いているのもあって、「結局は同じ結論なんだよなぁ」と飽きてしまったのですが(笑)、学校に行け(か)ない子ども の気もちを知りたい! という方には、ぴったりだと思います。
 
 最近だと、遠方でもオンラインでの参加ができたりなど、知りたいと思った情報が以前よりも入手しやすくなったなという気がします。情報を得て、できるだけたくさんのつながりを見つけていくと、それまでの当たり前や言い伝えなんかが、ちょっとちがった角度で見えてくる、こともあるかもしれませんね。
 
 
 
 最後に余談ですが、見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「○○に相談してみた」「(心理士や社会福祉士などの専門職)と相談しながら」など、フリースクールに見学に来る前に一旦どこかに相談をしていたり、利用するのと並行して他も利用してみるなど、すでに他にもつながりを求められている(もたれている)保護者の方が、以前よりも増えたなぁという印象です。
 たくさんつながりを知っておくことで、入ってくる情報もそれだけたくさんになります。その中から「どうすることがいいんだろう?」と試行錯誤しながら、よりよい方向を目指せていけたらなぁと思います。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
P R
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