フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
Posting of comments like the following will be declined:
・Comments other than Japanese.
・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
日本は、子どもの権利条約批准国です。
子どもの権利条約は、正式名を「児童の権利に関する条約」と言います。
子どもの権利条約は、「児童の権利に関する宣言(1959年)」の精神を踏まえて、1989年に採択されました。子どもの基本的人権が国際的に保障されていることを定めたもので、日本は1994(平成6)年に批准しました。
と、太字部分は、某スタッフから借りた保育士試験のテキストより。
批准(意味)
そう、日本も子どもの権利条約批准国、なんですよね。
けれど、本当にそう? と思えるような場面に、何度か出くわしたことがあります。
先の投稿であげたものもそうですし、私自身、過去には子どもを恫喝して従わせようとする場所で働いていたことがあります。生意気だ! うるさい、黙れ! と反論させない大人の姿に、
「この子にだって理由があるのだろうに、一切聞こうとしないのは、どうなんだろう」
と疑問に感じていました。その姿に疑問を感じていたので、一方的に怒鳴るのはやめようと決めて子どもに接していたら、
「もっと怒鳴らなきゃ。子どもになめられるわよ」
なんて言われて、え~? とも思ったものです。
そのころの私は、子どもの権利条約という言葉さえも知りませんでしたが、時期としては2000年代前半のことだから、日本が批准したよりもあと、ということになります。
子どもの権利条約の最大の特徴は、何といっても「子どもを権利を使うことのできる主体」と保障した点にあると言えると思います。
以下、子どもの権利条約にて「子どもの最善の利益」「意見表明権」について定義された条文です。
第3条
第1項
児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的もしくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする(児童の最善の利益)。
また、第12条には、
第1項
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する(意見表明権)。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢および成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
とあって、子どもにとって最善の利益は何であるかと子どもを取り巻く周囲が考慮すること、子どもも自分の意見を表明することができることを明記しているわけです。
ただ、日本が子どもの権利条約に批准している国であると知っている人はどのぐらいいるのかというと、実は知らない人の割合が結構多いんじゃないかと感じています。
また、子どもにもこんな権利があるんだというと、
「そんな条約があるから、子どもはつけあがるんだ」
と反論される方も、いるかもしれません。
これは、「誤った権利のとらえ方」だと思うのです。
「僕らには子どもの権利条約があるんだぞ! 意見を表明していいんだぞ!」
と、子どもが使うのも、私は「誤った権利の行使の仕方だと思います。
子どもの権利条約は、頭や感覚では何となくわかっていることを、文章として形にしたものだととらえていて、子ども以外にも様々な権利があります。権利があるのは子どもだけではなく、自分がよりよく生きるために、また相手もよりよくあるために、権利が存在するのだと踏まえられたら「子どもはつけあがるんだ」という発言も、「意見を表明していいんだぞ」と言うのも、誤った認識だと思って。
子どもを含む様々な権利があると知ることは、相手を思いやることも、自分のことを大切にするのにも、大切なことだと感じています。
だからこそ、子どものうちから、子どもの権利条約を知ること、学ぶことをしたほうがいいなと思うのですが・・・。今を生きる子どもたちの中で、子どもの権利条約について知っている人って、どのぐらいいるのかな・・・
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最近、鉄道系youtuberと呼ばれる方たちの動画を見るのが好きです。
私自身が旅行好きというのもあるし、旅行といえば車よりも電車の思い出があるので、私も楽しんで見ています(車も、今住んでいる関西圏より、北陸・上信越ならバッチリです)
見ていて思うのは、「本当に好きなんだな」ということと、伝えるのがうまいなぁということ。
私自身、見知らぬ土地に行くのも好きだし(目指せ! 47都道府県踏破!)、そこへ行くまでにどんなルートがあるんだろう? と知るのも好きです。
以前用があって、長野の諏訪まで行くというときに、
・一旦東京まで行かないといけない?(東京=新幹線で品川、山手線で新宿から、特急)
・静岡乗換えでも行ける?(静岡まで新幹線、身延線に乗り換え、甲府から諏訪まで)
・名古屋から中央線へ乗り換えたほうがいい?(名古屋まで行き、特急で中央線の乗り継ぎ)
できるだけ急ぎで、かつ料金がいちばん安いのはどのルートだ? と調べて、結果、名古屋ルートになった覚えがあります。名古屋ルートも、新幹線を使うべきか、それとも私鉄特急かと迷い、このときは時間優先だったので新幹線だったかな。
青春18きっぷの季節であれば鈍行旅なんかもいいし、それこそ帰省に18きっぷを使ったり、私鉄の株主優待券でこちらも鈍行旅、なんていうこともありました。
鉄道に限らなければ、バス、船という方法なんかもありますね。
そのときによって時間優先か、安く上げること優先か、指定席を取っておくべきか、そうでないかと考えて、最善と思われるルート・手段を選んでいる感じです。
・・・というと、否定されたことがあります。
「そんな、ケチケチしてないで特急の指定席ぐらい取ったら?」
「鈍行旅なんて、疲れるだけじゃん。時間もったいないし」
その人にとっては「特急電車に乗るのが最善」「早く着くのが最善」だったのでしょう。以後も会うたびに
「○○行きの切符は取ってあるの?」
「前もって予約してないなんておかしい」
「また鈍行旅? いい加減にしたら?」
と言われるので、いちいち答えるのが面倒になってきて、それなりにかわすようになりましたが・・・。
(余談、「席が空いていれば」「年齢制限」などの条件はありますが、飛行機だと、直前に手配すると驚くぐらい安くなることもあるみたいですよ!)
小学校のときの話。
その先生は、富士登山を例にあげていました。
「5合目まで車で行って、そこから登る」
「下からずっと登っていく」
「ヘリコプターで頂上まで行く」
どんな形であれ、「富士山の頂上まで行く」という目的が達成できれば、いいんだということ。
算数の、長方形が2つ重なったような形の面積を求めるときに、たとえとして用いた話だったかな、と思います。
じっくり登りたい、途中の車であがっていく過程も楽しみたい、楽をしたい。人それぞれの考え方であって、同じ目的に向かっていることに変わりはない、と。
ならば、いくつも方法を知っておくことも大事だし、考えた結果選んだ方法が目的を達成するものなのであれば、本来否定されるものではない、はず。
ひとつの方法だけが正しいと言いきってしまうのはちがうんだ、と、私が思い出すきっかけとなっているエピソードです。
人によって「最善」はちがうのだから、ならばできる限りの「最善」を提示できるよう、たくさんの情報をつかんでおくことも大事だし、(犯罪に差し障ることでない限り)どれを選ぼうとその人の選択を応援するのが、本来の「相手を大切にする」ことだよなぁと考えています。
私自身が旅行好きというのもあるし、旅行といえば車よりも電車の思い出があるので、私も楽しんで見ています(車も、今住んでいる関西圏より、北陸・上信越ならバッチリです)
見ていて思うのは、「本当に好きなんだな」ということと、伝えるのがうまいなぁということ。
私自身、見知らぬ土地に行くのも好きだし(目指せ! 47都道府県踏破!)、そこへ行くまでにどんなルートがあるんだろう? と知るのも好きです。
以前用があって、長野の諏訪まで行くというときに、
・一旦東京まで行かないといけない?(東京=新幹線で品川、山手線で新宿から、特急)
・静岡乗換えでも行ける?(静岡まで新幹線、身延線に乗り換え、甲府から諏訪まで)
・名古屋から中央線へ乗り換えたほうがいい?(名古屋まで行き、特急で中央線の乗り継ぎ)
できるだけ急ぎで、かつ料金がいちばん安いのはどのルートだ? と調べて、結果、名古屋ルートになった覚えがあります。名古屋ルートも、新幹線を使うべきか、それとも私鉄特急かと迷い、このときは時間優先だったので新幹線だったかな。
青春18きっぷの季節であれば鈍行旅なんかもいいし、それこそ帰省に18きっぷを使ったり、私鉄の株主優待券でこちらも鈍行旅、なんていうこともありました。
鉄道に限らなければ、バス、船という方法なんかもありますね。
そのときによって時間優先か、安く上げること優先か、指定席を取っておくべきか、そうでないかと考えて、最善と思われるルート・手段を選んでいる感じです。
・・・というと、否定されたことがあります。
「そんな、ケチケチしてないで特急の指定席ぐらい取ったら?」
「鈍行旅なんて、疲れるだけじゃん。時間もったいないし」
その人にとっては「特急電車に乗るのが最善」「早く着くのが最善」だったのでしょう。以後も会うたびに
「○○行きの切符は取ってあるの?」
「前もって予約してないなんておかしい」
「また鈍行旅? いい加減にしたら?」
と言われるので、いちいち答えるのが面倒になってきて、それなりにかわすようになりましたが・・・。
(余談、「席が空いていれば」「年齢制限」などの条件はありますが、飛行機だと、直前に手配すると驚くぐらい安くなることもあるみたいですよ!)
小学校のときの話。
その先生は、富士登山を例にあげていました。
「5合目まで車で行って、そこから登る」
「下からずっと登っていく」
「ヘリコプターで頂上まで行く」
どんな形であれ、「富士山の頂上まで行く」という目的が達成できれば、いいんだということ。
算数の、長方形が2つ重なったような形の面積を求めるときに、たとえとして用いた話だったかな、と思います。
じっくり登りたい、途中の車であがっていく過程も楽しみたい、楽をしたい。人それぞれの考え方であって、同じ目的に向かっていることに変わりはない、と。
ならば、いくつも方法を知っておくことも大事だし、考えた結果選んだ方法が目的を達成するものなのであれば、本来否定されるものではない、はず。
ひとつの方法だけが正しいと言いきってしまうのはちがうんだ、と、私が思い出すきっかけとなっているエピソードです。
人によって「最善」はちがうのだから、ならばできる限りの「最善」を提示できるよう、たくさんの情報をつかんでおくことも大事だし、(犯罪に差し障ることでない限り)どれを選ぼうとその人の選択を応援するのが、本来の「相手を大切にする」ことだよなぁと考えています。
Children are people.
2011年2月に開催された、第3回日本フリースクール大会(JDEC)にて、パット・モンゴメリーさんの発言の中の一節。通訳がついてはいたけれど、この一文は通訳を介さなくても聞き取れた。
パット・モンゴメリー
(創設したクロンララ・スクールについてのwikipediaですが)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
どんな学びの場でも大事にしている6つのことがある、とお話しされた中の一番目が冒頭の、Children are people. だった。この文をパットさんは2回言ったことを覚えている。
私は、それだけ大事にしていることだから、2回言う(強調する)よ、と受け止めた。
6つのうちの一番目、という点からも、それだけ大事なんだろう、と。と同時に、私が過去に働いていた場所のことを、ちょっと思い出したりもして。
「当事者から学ぶ」というのは、あくまで自分の感覚になってしまうけれども、なんとなく感じていて。学校に行けない・行かないということに対して家族内でさえ誤解があったし、外部で言われていることに「そうじゃないのに!」と思ったこともあるし、結果たどり着いた答えが、「その立場でないとわからないんだ!」ということだった。
前回のこととも重なるけれど、推測でならいくらでも語ることができる。じゃあ実際はどうなの? は、実際に体験した立場や、その中に身を置いている人でないとわからないんだ、と。
であれば、今の子ども事情は、大人が見た子どもではなく、「子ども自身から」教えてもらうのがスジじゃないか。
そう思ったら、相手が子どもと呼ばれる人でも、こちらが学ぶことはたくさんある。子どもか大人かって、単に生きた年数・経験の数の違いじゃないか。であるなら、同じ人であることには変わりないじゃん! と。
よぉし、子どもからたくさん学ぶんだ! と意気込んで、子どもと関わるある場で働いてみたら、子どもを思いきり威圧するような場で、かえって私がしんどくなり。
「私の感覚はちがったんだろうか」と、揺らいでいたときに、別の子どもと関わる場で働き、今度は子どものことを一人の人として本当に大切にしようとしている場で、今度は「私が思っていることはたぶん間違っていなかった」と、小さな自信になり。
その後、パットさんの冒頭の言葉を耳にして、確信に変わり。
今、言ったことが日常的にできているかというと、そこは大いに自信のないところだけど(汗)、相手がどの立場であれ、一人の人として接するということは、これからも大切にしていきたい(できていなかったら、ぜひ教えてください!!)
・・・と思っていたら。
こんな記事があって、う~ん、なんとも。いつの時代の話?
「バカヤロー」放課後児童クラブ責任者、威圧発言繰り返す 豊田 | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20211105/k00/00m/040/142000c
この人に、パットさんの言葉を伝えられるなら、どう響くんだろうか・・・
https://mainichi.jp/articles/20211105/k00/00m/040/142000c
この人に、パットさんの言葉を伝えられるなら、どう響くんだろうか・・・
そしてこの記事を見て、「子どもの権利条約」について考えてみたい、と、改めて考えた。
ずっと、○○してみたい、で終わってるな、子どもの権利条約。何となくこういうもの、という程度ならわかるけれど、今こそしっかりやってね、というお達しなのかもしれない。
もうずいぶん前の話ですが、自分の都合で大阪に引っ越すことを、親に言ったとき。その時言われたことに、ものすごくイライラしたことがありました。
「大阪の人は、みんな○○だから」
こいつ、大阪の何を知ってそう言っているんだと、さすがにこいつとは言わなかったものの、
「何を知っていて、そう言えるの?」
と反論しました。
「ごめんごめん、いや、話に聞く人と実際に会った人が、大阪のイメージそのままだったからさ。みんなそんな感じかと思って、アハハ」
アハハじゃないだろ、大阪府民に謝れよ。てか、大阪のイメージって何だよ。
私も交友関係は広いほうではないし、そのときは大阪について何を知っているかと問われて答えられることは限られていましたが(今でも何を知っているのかと問われて、答えられる自信がありません)、親が「ただの先入観で」「ということは何の『事実』も知らずに」、それが「大阪のすべてである」かのように答えることに対して、怒りを通り越してあきれてしまいました。
かつて、フリースクールは学校を敵視している、なんて言われていました。
元より私は、学校がいいと思う部分もあるし、でもかつて学校に行かなかったときがある身としては、学校じゃない場所でも出会いはあったし、学校では知れないこともあったしと、「どちらも良し悪しあるなぁ」といったところだったので(そりゃ、学校に行けなかった時代は「学校なんて!」と思っていたときもありましたが)、敵視しているわけじゃないんだけど、と思っていました。
最初から決められているものを、決められた枠組みにそってこなすことが、実は私は好きです。自分で何をしようか、時間はどう分配しようかなど、あれこれ考える手間が省けるので。学校だと、時間割が決まっているし、1日の、1年の中でどれだけ何をこなさなきゃいけないかが決まっているので、これは学校のとても素晴らしいシステムだと思っています。
なので私は、事あるごとに、「学校を敵視しているわけじゃなくて、学校は学校でいいところがありますし」とお話ししていて、団体の紹介動画にも、この文言を含めています。
学校には学校で、フリースクールにはフリースクールでいいところ、そうでないところがある。それは、恐らくどちらも同じ。そして、「子どものために何かできることはないか」と、子どもを念頭に置いているのも、恐らく同じ。
・・・じゃあ、何で対立するんだろう? 同じ方向を向いているのであれば、お互いのメリットを生かして協力しあえばいいのに。
実際、フリースクールでは、このような動きが以前から「当たり前のように」ありました。ラヴニールも加盟している「ふりー! すくーりんぐ」が、その一例です。とにかく、「対立している」「敵視している」と言われることが、私には不思議でたまりませんでした。
「どうせ学校なんて信用できない、とでも思ってるんでしょ」
「不登校に対する常識がないとでも、思ってるんでしょ」
「そんな中身も知らないところに、学校現場に携わるものが簡単に紹介できるわけがないじゃない。そもそもフリースクールを紹介する時点で、学校現場にいるものとしては、失格じゃない?」
などの声を、又聞きではありますが聞くたび、
「え~、そんなこと思ってないのに。なんでそう言われるんだろ」
と思ったこともあります。
学校なんて信用できない。少なくとも私は、フリースクールに携わるようになってからは、そう思ったことはないです。
学校に行けない・行かないことに対する常識も知らない。・・・うん、確かにそう思ったことはあります。でも裏を返せばそれって、フリースクール仲間の狭い世界では当たり前でも、世間ではそうでないということ。仲間内での当たり前が、それ以外でも通用するとは限らない。
ならば、知らないからって馬鹿にするのは違うし、しているつもりもない(もし、オーラ的に何か出ていて馬鹿にしていると感じられたことがある方がいたら、ごめんなさい)
中身も知らないところに・・・、ならば、知ってください。恐らく多くのフリースクールは見学させてくれますよ? とは思うけれど、先生ごめんなさい、そんな余裕もないぐらい、本当はお忙しいですよね。と、ほんの2週間だけ「教員」に触れたことのある者より。
これらの声に対して思う私の声は、向きを逆にして考えたら、私たちも相手を知らないということでもあるなと。
私たちは、いったい学校の何を知っているの? 自分たちで通ってきた、学校の児童・生徒だった立場では知っているけれど、学校って通う側だけの側面じゃないでしょ? もっと学校の全体としてみたときに、いったい何を知っているんだろう?
(「学校で働いていた経験ありますよ~」というフリースクールのスタッフさんもいたりしますが、ごめんなさい、ここでは除いています)
そう、お互いが、お互いのことを知らないのに、知らないままにして勝手に相手を敵認定していないか?
これって、冒頭の私が親に言われてイラッとした状況と、同じではないか?
ならば、相手を知ること、実際を知ることこそ、大事なんじゃないか?
この1年ぐらいですが、私たち民間のフリースクール仲間同士だけでなく、公的な立場で不登校に携わる方たちと懇談する機会が、ちょっと増えました。そのときに思うことは、
・私たちが思う以上に、この人たち(公的な立場で不登校に携わる方たち)も手探りで、でも一生懸命どうにかしようとしているということ。
・そしてそれは、学校という枠のみにとらわれず、多角的に考えようとしていること。
・先方も一生懸命私たちを知ろうとしている。ならば、私たちも先方のがんばりをもっと知ることが、子どもとその周囲の環境を整えることにつながるんじゃないか。
・こうしてお互いに存在を知り合うことが、子どもの最善の利益につながるんじゃないだろうか。
ならば、余計に「どうせ学校は」「どうせ行政は」なんて思っている場合じゃない。もっともっと、フリースクールとしても、官民問わずこんな場所や制度があるんだと知っていかなければ。同時に、「私たちもこんなふうにがんばっています!」と、声をあげていかなきゃ。
相手のことがほんの少しわかって、なぁんだ、同じ方向を向いていたんですねってわかったら、何だか楽しくなってきました。
その渦中にいる人だけが大事。そう思ってきました。
渦中だけじゃなくて、その周囲も均していく。周囲が足並みをそろえる。同じ方向を向く。そのためには、どうすればいいか?
考えれば考えるほど深くて、そして、ワクワクするなぁ。
「大阪の人は、みんな○○だから」
こいつ、大阪の何を知ってそう言っているんだと、さすがにこいつとは言わなかったものの、
「何を知っていて、そう言えるの?」
と反論しました。
「ごめんごめん、いや、話に聞く人と実際に会った人が、大阪のイメージそのままだったからさ。みんなそんな感じかと思って、アハハ」
アハハじゃないだろ、大阪府民に謝れよ。てか、大阪のイメージって何だよ。
私も交友関係は広いほうではないし、そのときは大阪について何を知っているかと問われて答えられることは限られていましたが(今でも何を知っているのかと問われて、答えられる自信がありません)、親が「ただの先入観で」「ということは何の『事実』も知らずに」、それが「大阪のすべてである」かのように答えることに対して、怒りを通り越してあきれてしまいました。
かつて、フリースクールは学校を敵視している、なんて言われていました。
元より私は、学校がいいと思う部分もあるし、でもかつて学校に行かなかったときがある身としては、学校じゃない場所でも出会いはあったし、学校では知れないこともあったしと、「どちらも良し悪しあるなぁ」といったところだったので(そりゃ、学校に行けなかった時代は「学校なんて!」と思っていたときもありましたが)、敵視しているわけじゃないんだけど、と思っていました。
最初から決められているものを、決められた枠組みにそってこなすことが、実は私は好きです。自分で何をしようか、時間はどう分配しようかなど、あれこれ考える手間が省けるので。学校だと、時間割が決まっているし、1日の、1年の中でどれだけ何をこなさなきゃいけないかが決まっているので、これは学校のとても素晴らしいシステムだと思っています。
なので私は、事あるごとに、「学校を敵視しているわけじゃなくて、学校は学校でいいところがありますし」とお話ししていて、団体の紹介動画にも、この文言を含めています。
学校には学校で、フリースクールにはフリースクールでいいところ、そうでないところがある。それは、恐らくどちらも同じ。そして、「子どものために何かできることはないか」と、子どもを念頭に置いているのも、恐らく同じ。
・・・じゃあ、何で対立するんだろう? 同じ方向を向いているのであれば、お互いのメリットを生かして協力しあえばいいのに。
実際、フリースクールでは、このような動きが以前から「当たり前のように」ありました。ラヴニールも加盟している「ふりー! すくーりんぐ」が、その一例です。とにかく、「対立している」「敵視している」と言われることが、私には不思議でたまりませんでした。
「どうせ学校なんて信用できない、とでも思ってるんでしょ」
「不登校に対する常識がないとでも、思ってるんでしょ」
「そんな中身も知らないところに、学校現場に携わるものが簡単に紹介できるわけがないじゃない。そもそもフリースクールを紹介する時点で、学校現場にいるものとしては、失格じゃない?」
などの声を、又聞きではありますが聞くたび、
「え~、そんなこと思ってないのに。なんでそう言われるんだろ」
と思ったこともあります。
学校なんて信用できない。少なくとも私は、フリースクールに携わるようになってからは、そう思ったことはないです。
学校に行けない・行かないことに対する常識も知らない。・・・うん、確かにそう思ったことはあります。でも裏を返せばそれって、フリースクール仲間の狭い世界では当たり前でも、世間ではそうでないということ。仲間内での当たり前が、それ以外でも通用するとは限らない。
ならば、知らないからって馬鹿にするのは違うし、しているつもりもない(もし、オーラ的に何か出ていて馬鹿にしていると感じられたことがある方がいたら、ごめんなさい)
中身も知らないところに・・・、ならば、知ってください。恐らく多くのフリースクールは見学させてくれますよ? とは思うけれど、先生ごめんなさい、そんな余裕もないぐらい、本当はお忙しいですよね。と、ほんの2週間だけ「教員」に触れたことのある者より。
これらの声に対して思う私の声は、向きを逆にして考えたら、私たちも相手を知らないということでもあるなと。
私たちは、いったい学校の何を知っているの? 自分たちで通ってきた、学校の児童・生徒だった立場では知っているけれど、学校って通う側だけの側面じゃないでしょ? もっと学校の全体としてみたときに、いったい何を知っているんだろう?
(「学校で働いていた経験ありますよ~」というフリースクールのスタッフさんもいたりしますが、ごめんなさい、ここでは除いています)
そう、お互いが、お互いのことを知らないのに、知らないままにして勝手に相手を敵認定していないか?
これって、冒頭の私が親に言われてイラッとした状況と、同じではないか?
ならば、相手を知ること、実際を知ることこそ、大事なんじゃないか?
この1年ぐらいですが、私たち民間のフリースクール仲間同士だけでなく、公的な立場で不登校に携わる方たちと懇談する機会が、ちょっと増えました。そのときに思うことは、
・私たちが思う以上に、この人たち(公的な立場で不登校に携わる方たち)も手探りで、でも一生懸命どうにかしようとしているということ。
・そしてそれは、学校という枠のみにとらわれず、多角的に考えようとしていること。
・先方も一生懸命私たちを知ろうとしている。ならば、私たちも先方のがんばりをもっと知ることが、子どもとその周囲の環境を整えることにつながるんじゃないか。
・こうしてお互いに存在を知り合うことが、子どもの最善の利益につながるんじゃないだろうか。
ならば、余計に「どうせ学校は」「どうせ行政は」なんて思っている場合じゃない。もっともっと、フリースクールとしても、官民問わずこんな場所や制度があるんだと知っていかなければ。同時に、「私たちもこんなふうにがんばっています!」と、声をあげていかなきゃ。
相手のことがほんの少しわかって、なぁんだ、同じ方向を向いていたんですねってわかったら、何だか楽しくなってきました。
その渦中にいる人だけが大事。そう思ってきました。
渦中だけじゃなくて、その周囲も均していく。周囲が足並みをそろえる。同じ方向を向く。そのためには、どうすればいいか?
考えれば考えるほど深くて、そして、ワクワクするなぁ。
主に急な予定変更などに利用しているtwitterにて、スタッフが備忘録的につぶやいたものに、ちょっと付け足して。
記録って、大事なんです。
これは、フリースクールの業務に関することだけでなく、日々の中でも大事。
記録といっても、がむしゃらに1日の行動のすべてを記録するのは大変なので、日々の中の「この部分」だけに限定するなど、何でもいいです。
たとえば、その日考えたことや気づき。体調。こんなことに怒った、こんなことで癒された、など、な~んでも。
そうして記録し続けたら、そこに少しずつ、成長が見えてくる。進めたのなら、それをもっと継続していく。もし退行したなら、どうしてだろう? と振り返り、ぶつかった困難に弾き返されたのなら、どうすればその困難を小さくすることができるのか? 小さくしたうえで困難は突破するのか? それとも付き合い続けるのか?
そういう、次の目標が、見えてくる。
そもそも、記録をし続けるのが難しいなぁという人。えらそうに言っているけれど、私も大の苦手です(笑) 日記をつけよう! と思って、続いたためしがない(数ページ埋まったノートがたまっただけ)。
何も、わかりやすく、目に付きやすいものじゃなくてもいいんです。
この投稿記事を読んでいる方なら、ぜ~ったいに毎日していることが、あるはずです。本当に、些細なこと、「こんな目標だったらみんなに笑われるわ」というようなものでもいいんです。
とにかく、「続ける」「記録する」。
続けられてるな~、と思ったら、今度はそこに、オプションを加えてみる。
そのオプションは、自分で自分が納得したものを加える。
毎日起きることを続けられているのなら、オプションは「毎日同じ時間ぐらいに布団に入る」なんて、いかがでしょう?
毎日たくさん字を書くことを続けているのなら、オプションは「昨日よりも間違えた字を少なくする」なんて、いかがでしょう?
こうすることで、「成長」していける。
自分で加えたオプションが、どうもうまくいきそうにないなら、そのときにはオプションを変えちゃえばいい。
できたことに対しては、プラスの感情の言葉がけを。
うまくいかないことに対しては、どうしたらうまくいくかの言葉がけを。
「そんなのムリに決まってるのに」「次は○○しない」など、マイナスの言葉はかけないように。
数学は、マイナス × マイナスってプラスになるけれど、気もちは、マイナス同士をいくらかけたってマイナスのままなんだから。
今、何ができているか。やれているなら、それに対してのプラスの言葉がけ。
できないやれないよりも、「今できていること」に、どう取り組んでいくか。そこに、プラスの意識を持っていくことで、取り組み方も変わっていくから。
記録は、自分の成長も残る。
こんな言葉がけがうれしかった、こんなときに調子がよくなかった。
こんなことをしたら、困難との付き合い方がわかった・・・など、これからの自分も見通せる。
だから、記録って本当に大事!!
記録って、大事なんです。
これは、フリースクールの業務に関することだけでなく、日々の中でも大事。
記録といっても、がむしゃらに1日の行動のすべてを記録するのは大変なので、日々の中の「この部分」だけに限定するなど、何でもいいです。
たとえば、その日考えたことや気づき。体調。こんなことに怒った、こんなことで癒された、など、な~んでも。
そうして記録し続けたら、そこに少しずつ、成長が見えてくる。進めたのなら、それをもっと継続していく。もし退行したなら、どうしてだろう? と振り返り、ぶつかった困難に弾き返されたのなら、どうすればその困難を小さくすることができるのか? 小さくしたうえで困難は突破するのか? それとも付き合い続けるのか?
そういう、次の目標が、見えてくる。
そもそも、記録をし続けるのが難しいなぁという人。えらそうに言っているけれど、私も大の苦手です(笑) 日記をつけよう! と思って、続いたためしがない(数ページ埋まったノートがたまっただけ)。
何も、わかりやすく、目に付きやすいものじゃなくてもいいんです。
この投稿記事を読んでいる方なら、ぜ~ったいに毎日していることが、あるはずです。本当に、些細なこと、「こんな目標だったらみんなに笑われるわ」というようなものでもいいんです。
とにかく、「続ける」「記録する」。
続けられてるな~、と思ったら、今度はそこに、オプションを加えてみる。
そのオプションは、自分で自分が納得したものを加える。
毎日起きることを続けられているのなら、オプションは「毎日同じ時間ぐらいに布団に入る」なんて、いかがでしょう?
毎日たくさん字を書くことを続けているのなら、オプションは「昨日よりも間違えた字を少なくする」なんて、いかがでしょう?
こうすることで、「成長」していける。
自分で加えたオプションが、どうもうまくいきそうにないなら、そのときにはオプションを変えちゃえばいい。
できたことに対しては、プラスの感情の言葉がけを。
うまくいかないことに対しては、どうしたらうまくいくかの言葉がけを。
「そんなのムリに決まってるのに」「次は○○しない」など、マイナスの言葉はかけないように。
数学は、マイナス × マイナスってプラスになるけれど、気もちは、マイナス同士をいくらかけたってマイナスのままなんだから。
今、何ができているか。やれているなら、それに対してのプラスの言葉がけ。
できないやれないよりも、「今できていること」に、どう取り組んでいくか。そこに、プラスの意識を持っていくことで、取り組み方も変わっていくから。
記録は、自分の成長も残る。
こんな言葉がけがうれしかった、こんなときに調子がよくなかった。
こんなことをしたら、困難との付き合い方がわかった・・・など、これからの自分も見通せる。
だから、記録って本当に大事!!
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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