フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
Posting of comments like the following will be declined:
・Comments other than Japanese.
・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
先日、大阪府フリースクール等ネットワークの総会がありました。
なかなか深く強く関わることはできていませんが、会議や講演に参加するメリットとして、自分では知らない情報を得るため、という目的をもっています。
こうしていろいろ知っておくことでもうひとつ、「他を知っておくことで、異なる方法での何かを考えることができる」というメリットもあります。
ひとつの組織としてあるまじき行為といえば、あるまじき行為なのですが、話せそうだなと思ったらお話ししている言葉があります。
「もちろんラヴニールに来てくれることが、私はいちばんうれしい。でも、フリースクールに限らず他にもいろいろ考えたり相談した結果、他の方法がいいなと思ったのなら、本音を言うと悔しいけれども、その『いいなと思った方法』に進んでみてほしい」
その人にとって「いいなと思う方法」は、私がいいと思うものと同じとは限らないので。少しだけ「悔しいけれど」という気もちもにじませるけれど、でもいちばんは、本人がどうしたいかということ。そこを大切にしていきたいという思いをこめています。
「いいなと思う方法」を常に知っておくために、自分のところでは弱いなと思う部分を補うことができたり、また、悩んだりしたときに、同業の仲間同士で相談したり紹介しあえたり、そういった意味で、ネットワークの力というのは大きいなと思います。
PR
12月という言葉の響きからか、それともちゃんと時期に合わせて変わってきたのか、昨日と今日は、大阪も冬! という感じの寒い日になっています。
私自身、冬は大好きです。裸になったって汗が吹き出てくる夏とはちがい、寒くても対策をすれば凌げるのと、子どものころの雪遊びの楽しかった思い出、体育は大の苦手だったけど、唯一スキーだけは、運動神経でマウントをとってくる子よりも上手だったのがあって、割といい思い出が残っています。
他には、旅行好きの観点からいくと、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の川端康成の雪国の一節のとおり、群馬と新潟の県境のトンネルを越えただけなのに天気ががらっと変わってる様子を何度か見てきたので、本当だ~! という興奮を、今でもしっかり覚えているから、かもしれません。
雪国の方、すみません。雪がたくさんあることが「雪遊びが楽しい」と思えた時代だったので、雪に関してはいい思い出しか残っていないです・・・。北陸の実家から、「今年はこれだけ積もった」と毎年送られてくる写メを見ては、「雪おろし、雪かき、大変そうだ・・・」とは思うのですが・・・(汗)
雪があるのが当たり前だった生活を離れて、もう長いこと。今ではなんとな~くは覚えている程度になってしまいました。
と、少し話題がそれてしまいましたが、私の子どもはどうかというと、どうも私が苦手な夏のほうが好きな様子。理由を尋ねると、
「おまつりがあるから」
「すいかがたべられるから」←スイカ大好きなんです
「みずあそびができるから」
どうも、冬よりも(彼にとって)楽しいことがたくさんあるから、なようです。
そうなんですよね。
私の好きが、相手も好きだとは限らない。だって、自分と相手とはちがうのだから。
と思っていても、つい、「自分が好きなんだから、相手も好きにちがいない」と勘ちがいしてしまったり、時には、「え? 同じことが好きだと思ってたのに! もうこれであなたとは付き合えません!」って、ほんの少し考えがちがっただけで、相手のことを完全否定したりとか。
逆に、自分と考えや思考が完全に同じ人って、この世の中にいるんでしょうか。
いろんな考えの人がいるからちがった角度で物事を知れるし、自分になかった知識を得られるし、自分が見えていなかったところを指摘されるし、「考えがちがう人」こそ、本来は大切にする存在なんじゃないかと、このところ考えます。
梅雨が終わってセミが鳴きだしたころ。それまでの雨続きだった天気から一転晴れが続く空を見上げて、私の子どもが
「う~ん、いいてんき!」
と言いました。すかさず私は、
「そうやね、いい天気やね。けど、カエルさんにとってはどうだろう? 暑いとすぐにカラカラに乾いちゃうから、カエルさんにとっては雨のほうがいい天気かもしれないよ? だから、晴れはいい天気とは限らないのかも」
と思ってしまい・・・。ここまでくると、単なる屁理屈かもしれませんね(苦笑)
私自身、冬は大好きです。裸になったって汗が吹き出てくる夏とはちがい、寒くても対策をすれば凌げるのと、子どものころの雪遊びの楽しかった思い出、体育は大の苦手だったけど、唯一スキーだけは、運動神経でマウントをとってくる子よりも上手だったのがあって、割といい思い出が残っています。
他には、旅行好きの観点からいくと、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の川端康成の雪国の一節のとおり、群馬と新潟の県境のトンネルを越えただけなのに天気ががらっと変わってる様子を何度か見てきたので、本当だ~! という興奮を、今でもしっかり覚えているから、かもしれません。
雪国の方、すみません。雪がたくさんあることが「雪遊びが楽しい」と思えた時代だったので、雪に関してはいい思い出しか残っていないです・・・。北陸の実家から、「今年はこれだけ積もった」と毎年送られてくる写メを見ては、「雪おろし、雪かき、大変そうだ・・・」とは思うのですが・・・(汗)
雪があるのが当たり前だった生活を離れて、もう長いこと。今ではなんとな~くは覚えている程度になってしまいました。
と、少し話題がそれてしまいましたが、私の子どもはどうかというと、どうも私が苦手な夏のほうが好きな様子。理由を尋ねると、
「おまつりがあるから」
「すいかがたべられるから」←スイカ大好きなんです
「みずあそびができるから」
どうも、冬よりも(彼にとって)楽しいことがたくさんあるから、なようです。
そうなんですよね。
私の好きが、相手も好きだとは限らない。だって、自分と相手とはちがうのだから。
と思っていても、つい、「自分が好きなんだから、相手も好きにちがいない」と勘ちがいしてしまったり、時には、「え? 同じことが好きだと思ってたのに! もうこれであなたとは付き合えません!」って、ほんの少し考えがちがっただけで、相手のことを完全否定したりとか。
逆に、自分と考えや思考が完全に同じ人って、この世の中にいるんでしょうか。
いろんな考えの人がいるからちがった角度で物事を知れるし、自分になかった知識を得られるし、自分が見えていなかったところを指摘されるし、「考えがちがう人」こそ、本来は大切にする存在なんじゃないかと、このところ考えます。
梅雨が終わってセミが鳴きだしたころ。それまでの雨続きだった天気から一転晴れが続く空を見上げて、私の子どもが
「う~ん、いいてんき!」
と言いました。すかさず私は、
「そうやね、いい天気やね。けど、カエルさんにとってはどうだろう? 暑いとすぐにカラカラに乾いちゃうから、カエルさんにとっては雨のほうがいい天気かもしれないよ? だから、晴れはいい天気とは限らないのかも」
と思ってしまい・・・。ここまでくると、単なる屁理屈かもしれませんね(苦笑)
健康とは、体が何の問題もない状態であることではない。
体はもちろんのこと、その人の心の面でも、またその人をとりまく周囲の状態がいいように整っていることを、健康という。
と知ったのは、下記の文がスタッフが持っていたある資格のテキスト(★)に記載されていたからでした。
WHO憲章(前文)
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」
ここまでの太字部分:WHOホームページより引用
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義しています。これは、健康とは
①単に身体的に病気や異常がないということではなく、
②心理的・精神的にも満たされていること、
③個人を取り巻く環境も好ましい状態に保たれていること、
という意味です。
青太字の部分:スタッフが持っていたある資格のテキストより引用
(★)2021年版 ユーキャンの保育士速習テキスト(下)
子どもの保健 1、子どもの健康と保健の意義 p.74 より
最近は、ラヴニールの一般の方向けの資料を使って説明をするときに、「健康に過ごすことができるよう」、という文言を使っている気がします。
WHO憲章の前文に則るのならば、体の調子だけでなく、一人を中心にみんなで一人の健康を考えていこう。そしてそれは、一人でなくみんなの健康にもつながる、と言えるのかもしれません。
これを子どもに当てはめると、「子どもはその子なりに生きる喜びにあふれた生活を送ることが健康であり、すべての子どもには健康い生きる権利がある」ととらえることができます。
と、同じテキスト(★)には書かれており、これは子どもに限らず、誰にでも通用するなと思いました。
健康ってものすごく簡単に言うけれど、とっても奥が深く、簡単に使っていいのか!?と思うほど難しくもあることなんだなと、痛感します。
「うちの子は健康そのものなんですけどねぇ。どういうわけか、学校だけは嫌がるんです。どうにかしてほしいもんなんですけど・・・」
といった内容の相談を、よく見聞きします。以前なら、どうしても嫌な理由があるんですかねぇ。その理由はまだ本人にはわかっていなかったり、どうしても教えたくないのかもしれませんね。というぐらいにしか思いませんでしたが、今であれば、WHO憲章に則った意味で考えたら、
「う~ん、お子さん、本当に健康ですか? お子さん、『健康に』生きる権利を全うされてますか?」
なんて、粗探しをしてしまいそうです(コワイコワイ(汗))
極力しないように心がけているつもりですが、言うのはもちろん、もし顔に出ていたりしたら、皆さん、遠慮なくご指摘くださいね。
ひとりひとりが生きる事を喜びとし、健康であるためには、どうするのがいいか。どうしていったらいいか。
そのために、フリースクール「ラヴニール」ができることは、いったい何だろう?
問い続けていった先に、答えは見つかるのでしょうか!?
学校に行けなかったあいだにずっと気になっていたのが、「学校に行けないと将来が終わる」ということでした。だから今の学校に行けない自分はダメで、学校にまた「戻れる」ようにないとダメだと、ずっと思っていました。
そんな感じで無理をしてでも学校に行かなきゃと思って、とりあえず人が少しは減る土曜の午後などに、行ったことがあります(当時は今のような完全週休2日ではありませんでした)。
この情報は、親にはもちろん、当時私が通っていた支援施設(と、ここでは言っておきます)にも伝わっていました。
支援施設では、時々「学校に行ってみる気はないの?」と尋ねられることがありました。「学校に戻れるようになります」が謳い文句の場所でしたので、どうにかしてでも学校に気もちを向けようと必死だったのでしょう。となると、ほんの少しでも学校に行けるようになった私は、「絶好のターゲット」だったのかもしれません。
学校に少しずつ行けるようになってから、尋ねられるのではなく、「次は○○してみてね」に変わりました。
次はテストを受けに行ってみて。
次は1時間だけ授業を受けてみて。
次は、次は・・・
学校に行って担任に会って帰ってくるだけで、私はただ学校と自宅を往復した以上の疲れを感じていました。
そのうち、私は土曜に学校に行くのもやめました。テストも、受けたこともあったけれど、受けなくなりました。
親から言われたのは、
「せっかく学校に行けるようになったのに!」
支援施設では、何で学校にまた行かなくなったのかと尋ねられ、私は疲れる、しんどい、という理由をあげたかと思いますが、
「でもほら、学校に行けたんだからさ。またがんばって行ってみようよ」
誰も、自分のことなんてわかってくれないんだなと思いました。
学校に行く。ただそれだけのこと。周りはみんなそう思っていたかもしれません。
そこに、どんな自分の気もちがあるのか。今、学校に対する気もちはどうなのか。学校でなくても、今、自分の気もちはどうなのか。
このあたりを、誰も聞いてくれませんでした。
学校にほんの少し行くだけでも、私は本当に大変だったのに、誰もそれについて、「がんばったね」「がんばってるね」とは言ってくれませんでした。
今、目の前にいる私。それが、私。それが、今最善の私。
ここまでがんばっている私を、誰も認めてくれないんだな。
そこに、「せっかく学校に」の発言があって、ああ、学校というフィルター越しでしか、私を見ていないんだ。学校に行っている私に価値を見出していたんだと、寂しくなりました。
今だからこうして文にできますが、私という軸ではなく、学校という軸が基準になっていたんだなと、自分自身にも、周囲にも感じます。
今目の前にある姿を、丸ごと受け止める。
曲りなりに親になってわかったことですが、それって本当に難しい。
難しいけれど、まず、目の前にある存在そのものを大切にする、せめてしようとすることが、何においても最優先じゃないかなと、ふと感じました。
今の私を認めてよと思ってきた私が、果たして今の子どもの姿を受け止めているだろうかと振り返りつつ、つい
「そうやって余計なことするから時間かかるの! 余計なことはしない!」
「寄り道しない! さっさと歩く!」
「同じテレビばかり見ないで他のことも考えて!」
なんて。
えらそうに書いてしまいましたが、私もまだまだ、理想には程遠いです。
そんな感じで無理をしてでも学校に行かなきゃと思って、とりあえず人が少しは減る土曜の午後などに、行ったことがあります(当時は今のような完全週休2日ではありませんでした)。
この情報は、親にはもちろん、当時私が通っていた支援施設(と、ここでは言っておきます)にも伝わっていました。
支援施設では、時々「学校に行ってみる気はないの?」と尋ねられることがありました。「学校に戻れるようになります」が謳い文句の場所でしたので、どうにかしてでも学校に気もちを向けようと必死だったのでしょう。となると、ほんの少しでも学校に行けるようになった私は、「絶好のターゲット」だったのかもしれません。
学校に少しずつ行けるようになってから、尋ねられるのではなく、「次は○○してみてね」に変わりました。
次はテストを受けに行ってみて。
次は1時間だけ授業を受けてみて。
次は、次は・・・
学校に行って担任に会って帰ってくるだけで、私はただ学校と自宅を往復した以上の疲れを感じていました。
そのうち、私は土曜に学校に行くのもやめました。テストも、受けたこともあったけれど、受けなくなりました。
親から言われたのは、
「せっかく学校に行けるようになったのに!」
支援施設では、何で学校にまた行かなくなったのかと尋ねられ、私は疲れる、しんどい、という理由をあげたかと思いますが、
「でもほら、学校に行けたんだからさ。またがんばって行ってみようよ」
誰も、自分のことなんてわかってくれないんだなと思いました。
学校に行く。ただそれだけのこと。周りはみんなそう思っていたかもしれません。
そこに、どんな自分の気もちがあるのか。今、学校に対する気もちはどうなのか。学校でなくても、今、自分の気もちはどうなのか。
このあたりを、誰も聞いてくれませんでした。
学校にほんの少し行くだけでも、私は本当に大変だったのに、誰もそれについて、「がんばったね」「がんばってるね」とは言ってくれませんでした。
今、目の前にいる私。それが、私。それが、今最善の私。
ここまでがんばっている私を、誰も認めてくれないんだな。
そこに、「せっかく学校に」の発言があって、ああ、学校というフィルター越しでしか、私を見ていないんだ。学校に行っている私に価値を見出していたんだと、寂しくなりました。
今だからこうして文にできますが、私という軸ではなく、学校という軸が基準になっていたんだなと、自分自身にも、周囲にも感じます。
今目の前にある姿を、丸ごと受け止める。
曲りなりに親になってわかったことですが、それって本当に難しい。
難しいけれど、まず、目の前にある存在そのものを大切にする、せめてしようとすることが、何においても最優先じゃないかなと、ふと感じました。
今の私を認めてよと思ってきた私が、果たして今の子どもの姿を受け止めているだろうかと振り返りつつ、つい
「そうやって余計なことするから時間かかるの! 余計なことはしない!」
「寄り道しない! さっさと歩く!」
「同じテレビばかり見ないで他のことも考えて!」
なんて。
えらそうに書いてしまいましたが、私もまだまだ、理想には程遠いです。
私は、食べ物の好き嫌いに関しては「アレルギーなど『どうしても食べられない事情』以外は認めない」という鬼母(笑)です。なので、子どもが苦手としている野菜でも平気でメニューに取り入れています。
そんなあるとき、
「お母さん、今度、クラムチャウダーしてよ」
とリクエスト。クラムチャウダーには、貝を使います。貝は、私の苦手とする食べ物のひとつ。ものによりますが、特にあさりが苦手です。このあさり、子どもは結構好きで、食べることができます。
一応、つくるだけならつくることができるので、リクエストがあった数日後、クラムチャウダーをつくり、私の分の中にまざっていたあさりをひとつひとつ取り上げては、
「あの~、お母さん、あさり嫌いなんですけど」
と、子どもに宣言して子どものお皿の中に入れようとすると・・・
「食べなさ~い」
と、満面の笑みで拒否されてしまいました(笑)
当然ですよね。人には嫌いなものでも食べろって言うくせに、自分ばかりずるいよ! ってなりますよね。
でも、このおかげで克服しつつある?食材もあります。
子どもたち、干しぶどうが大好きなんですが、私は苦手で。パウンドケーキに黒いぶつぶつがあって、やったー! チョコチップだー! と思ってかじりついたら干しぶどうだった、あの悲しさといったら。
ただ、(ただでさえ小さいのに)小さく刻んでサラダなどに混ぜ込んでしまえば、意外と平気なことがわかって、苦手は苦手だけど、あさりよりはマシになりました。
たぶん、干しぶどうそのままで出されても、数粒ぐらいなら食べられると思います。これは、「干しぶどう嫌いを克服した」と、考えられるかもしれません。
「不登校をどうやって克服したんですか?」
たまに尋ねられます。が、返答に困ってしまいます。
不登校を克服したよ! と言う方もいるとは思います。けれど、その克服の仕方って、これまた人それぞれ。個人の感覚ですが、なんとなく、
・学校に行けなかったのが行くようになった。
・同上、ただし、進学のタイミングで。
・学校に行けなかったころを振り返れるようになった。
・何らかの形で「学校」に関わる必要がなくなった。
などなど。
克服することで次に進めたり、気もちの整理をつけられることもあると思うので、人によって克服したというのであれば、それを否定するつもりはないです。人それぞれの感覚ですしね。
ただ、私の場合は、困ってしまいます。
学校に行けなかった時期を過ごし、その後学校に行った時期がある。
学校に行けなかったころを振り返ることもできるし、お話しすることもある。
こういった姿が、他の方から見れば克服したと見えるのかもしれませんが、私としては克服したというわけではなく、「ずっといいお友達のような感じ」。
振り返るそのときそのときで、振り返り方が微妙に変わっていたり、思うことが変わったりするので、「終わった!」ではなく、「振り返り方が変わったなぁ」という気もちになるためです。
なので、本当に申し訳ないのですが、「克服されたんですね!」と言われても、う~ん、となってしまいます。
言えそうな雰囲気だなと思ったときには、
「あはは・・・、克服したとは思っていなくて、今でも仲良く付き合っている感じですよ」
と言ってしまうこともありますが、それでも、
「でも! 今こうして、立派に活動されているじゃないですか~」
と言われることもあって・・・。う~ん、別に立派に活動しているつもりもないんだけど・・・、と、素直に思えなかったり。
他の方から見ると、学校に行かなかった経験をすっと話せることは、克服したと映ってみえるのかな、と、思うことにしています。
人それぞれ、ということなんです。過去に学校に行かなかった経験がある全員が、克服したと思っているというわけではないよ、と。もちろん全員が「お友達だと思って付き合っているよ」というわけでもなく。
それぞれが思うことについて、「いやいや、あなたはこうでしょ?」と、勝手に人のことを決めないように・・・、自分への戒めです(汗)
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
カテゴリー
最新記事
(11/12)
(11/11)
(11/08)
(11/07)
(11/06)
P R
忍者カウンター