フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
Posting of comments like the following will be declined:
・Comments other than Japanese.
・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
漫画の、とあるシーンが好きで、何度も繰り返し見ちゃうんです。
るろうに剣心の15巻、第百二十六幕「巨人対超人(前編)」のワンシーン。
才槌老人、破軍の不二、比古清十郎のやりとり。
「俺は破軍の不二という男と 話をしたいんだ」
という比古清十郎に対して、
「お前は儂の言う事だけを聞いていればよいんじゃ!」
と、不二に言う才槌老人。それでも構わず、
「だがそろそろお前自身の意志で 『自分の闘い』を選んでみちゃあどうだ」
と不二に進言する、比古清十郎。
かなり端折っていますが、このシーン、大好きなんです。
比古清十郎が、巨体で誰からも恐れられていた不二、そして才槌老人の言うがままになっていた不二のことを、見た目など関係なく「ひとりの存在」として認めているこのシーン。好きなんです。
(アニメでは比古清十郎の声を、ガンダムのシャア・アズナブルやコナンの赤井秀一でおなじみの池田秀一さんがあててらっしゃるので、これがまた、いいんですよぉ、と、余談)
とある先に出かけたとき、その方は親子でいらしていました。
お子さんも学校に行きにくい時期があったとのことで、親の方は学校に行けない・行かないことについて関わろうとする人たちの場にも、親子で一緒に、かなり熱心に参加されています。
「あんな学校なんて行かせないほうがマシ!」
とおっしゃるので、その方にとって学校は「あまり信用できないところ」とのことだったのでしょう。補足しておくと、学校全部についてこう言っているのではなく、実際に見て回られて「あの学校はがんばっていると思う」とおっしゃることもあったので、たまたま、この方のお子さんが行かれていた学校が、親の方にとっては信用できなかった、ということなんだと思います。
ただ、そのときの話し方が、
「○○ちゃんは、あの学校で本当にひどい目にあったの」
「○○ちゃんは、先生に対して不信感をもっていたから」
と、ちょっとひっかかりました。
○○ちゃんが先生に対して不信感をもっていたのも、ひどい目にあったのも、本当なのだろうか? いや、本当にもっていたのかもしれないけれど、それを「本人から」聞いていないので、もしかして親御さんが勝手に推測していませんか? と。
私としては、○○ちゃんがどう思っていたのか、○○ちゃんの言葉で知りたいのに。話せないなら、それはそれで仕方がないけれど、本当のところは○○ちゃんしか知らないのに。なのにどうして、自分の子どものことを、わかったように言うのだろう? と。
似たようなことは、先述の親子とは別の親子の方が出ていたシンポジウムでもありました。
親の方は、
「学校でいじめられたのと、いじめがあったんじゃないかと尋ねても、先生も『知る限りはなかったように見えますが』ということで、信用できなくて。『そんなに自分が傷つく場所なら、やめておきなさい』と言ったんです」
そうよね? と最後に同意を求めて、親の方の発言は終わりましたが、次にお子さんの発言。
「ごめん、それ、嘘。最初はそうだと思ったから、そう言った。本当は、いじめもあったかもしれないけれど、いじめ以外にもたくさんあって、何で行けなくなったかなんて理由はわからない。みんなにも、そう言ってた。でも、親があちこちで『いじめられた』って言い続けていて、撤回したくてもできなかったんだ」
親の方とお子さんとの見解の違いに、「だよね~」と思ったことを覚えています。
当たり前なことだけど、親子であっても、別の人格。思うことも同じとは限らない。だからこそ、本人も含むいろんな人から情報を得ることで、一面的にではなく、多角的に、立体的に物事を見る必要がある、と、個人的には学んだシンポジウムでした。
私も、別のフリースクールや同業同士の集まりに出かけた先などで、「あれ? 今日○○さんは?」と尋ねてしまうことがあります。
でもこれって、「数人セットで見ている」ということ。ひとりの人として見てないってことだよなぁと、改めて気がつき、反省中です。
るろうに剣心の15巻、第百二十六幕「巨人対超人(前編)」のワンシーン。
才槌老人、破軍の不二、比古清十郎のやりとり。
「俺は破軍の不二という男と 話をしたいんだ」
という比古清十郎に対して、
「お前は儂の言う事だけを聞いていればよいんじゃ!」
と、不二に言う才槌老人。それでも構わず、
「だがそろそろお前自身の意志で 『自分の闘い』を選んでみちゃあどうだ」
と不二に進言する、比古清十郎。
かなり端折っていますが、このシーン、大好きなんです。
比古清十郎が、巨体で誰からも恐れられていた不二、そして才槌老人の言うがままになっていた不二のことを、見た目など関係なく「ひとりの存在」として認めているこのシーン。好きなんです。
(アニメでは比古清十郎の声を、ガンダムのシャア・アズナブルやコナンの赤井秀一でおなじみの池田秀一さんがあててらっしゃるので、これがまた、いいんですよぉ、と、余談)
とある先に出かけたとき、その方は親子でいらしていました。
お子さんも学校に行きにくい時期があったとのことで、親の方は学校に行けない・行かないことについて関わろうとする人たちの場にも、親子で一緒に、かなり熱心に参加されています。
「あんな学校なんて行かせないほうがマシ!」
とおっしゃるので、その方にとって学校は「あまり信用できないところ」とのことだったのでしょう。補足しておくと、学校全部についてこう言っているのではなく、実際に見て回られて「あの学校はがんばっていると思う」とおっしゃることもあったので、たまたま、この方のお子さんが行かれていた学校が、親の方にとっては信用できなかった、ということなんだと思います。
ただ、そのときの話し方が、
「○○ちゃんは、あの学校で本当にひどい目にあったの」
「○○ちゃんは、先生に対して不信感をもっていたから」
と、ちょっとひっかかりました。
○○ちゃんが先生に対して不信感をもっていたのも、ひどい目にあったのも、本当なのだろうか? いや、本当にもっていたのかもしれないけれど、それを「本人から」聞いていないので、もしかして親御さんが勝手に推測していませんか? と。
私としては、○○ちゃんがどう思っていたのか、○○ちゃんの言葉で知りたいのに。話せないなら、それはそれで仕方がないけれど、本当のところは○○ちゃんしか知らないのに。なのにどうして、自分の子どものことを、わかったように言うのだろう? と。
似たようなことは、先述の親子とは別の親子の方が出ていたシンポジウムでもありました。
親の方は、
「学校でいじめられたのと、いじめがあったんじゃないかと尋ねても、先生も『知る限りはなかったように見えますが』ということで、信用できなくて。『そんなに自分が傷つく場所なら、やめておきなさい』と言ったんです」
そうよね? と最後に同意を求めて、親の方の発言は終わりましたが、次にお子さんの発言。
「ごめん、それ、嘘。最初はそうだと思ったから、そう言った。本当は、いじめもあったかもしれないけれど、いじめ以外にもたくさんあって、何で行けなくなったかなんて理由はわからない。みんなにも、そう言ってた。でも、親があちこちで『いじめられた』って言い続けていて、撤回したくてもできなかったんだ」
親の方とお子さんとの見解の違いに、「だよね~」と思ったことを覚えています。
当たり前なことだけど、親子であっても、別の人格。思うことも同じとは限らない。だからこそ、本人も含むいろんな人から情報を得ることで、一面的にではなく、多角的に、立体的に物事を見る必要がある、と、個人的には学んだシンポジウムでした。
私も、別のフリースクールや同業同士の集まりに出かけた先などで、「あれ? 今日○○さんは?」と尋ねてしまうことがあります。
でもこれって、「数人セットで見ている」ということ。ひとりの人として見てないってことだよなぁと、改めて気がつき、反省中です。
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今朝、何気なく携帯電話からネットニュースを見ていて、「あれ? もしかしてサッカーって、今何か大事な国際試合やってる?」と思うような記事がありました。
そういえば最近、サッカーのニュースって聞かないな、と思っていましたが、たぶん「自分が気にしていないだけ」という結論に落ち着きました。以前は試合ごとにテレビ中継がないかと新聞のテレビ欄を穴が開くぐらいじぃっと見ていたし、国際試合も結構見ていました。
そうか、以前に比べてサッカー自体を見なくなってしまったので、情報も自分にとってはあまり必要じゃなくなったんだ。「興味のあることだからたくさん情報を入手しよう」が、「たくさん報道されている!」と思い込んでいたのかもしれない。
知ろうとしないと、情報って入ってこないものなんだ! と、当たり前のことかもしれないけれど、改めて気がつきました。
「学校に行けない・行かない」ことも、これに似ているなぁと思います。
見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「子どもの気もちがわからない」「学校に行かないって、たぶんこの子はどこかがおかしいとかではないと思うのだけど、どうしてそうなるのかがよくわからなくて」とおっしゃる保護者の方が、これまでに何名かいらっしゃいました。
多くの場合、「学校」が当たり前に存在し、当たり前に通っていたのではないか、と思います。それでうまくく場合はそれでいいんですが、そうでない場合もある。多くの人にとっては何ともないことでも、一部の人にとっては、それが苦手なこともある。
学校に行かない・行けない状態は、何か特別な事情があるというよりも、「誰でも、どの子でも起こりうる」と、今ではだいぶ認識はされているかなと思いますが、とはいっても、保護者の方自身が「学校」という道を通り抜けてきた以上、保護者の方自身が経験していないことに対する気もちを知るのは、とても難しいことだとも思います。
では、そんなときはどうするか?
簡単です、「尋ねてしまえばいい」んです。
ええ、簡単なんですが、最初から気もちや理由の整理が明確にできていれば、すぐに答えが出てくるかもしれません。ところが、そうでないこともある。口に出して話せるほど自分の中で整理できていないことも考えられるし、親を余計に心配させてしまうかもしれない、傷つけてしまうかもしれないと子どもの側が推し量って、あるいは話すのが恥ずかしいというのもあって、尋ねてもなかなか話そうとしない。
話そうとしないなら、それでOK。そこから無理に尋ねよう、話すようにさせようとせず、「今は整理ができていないのかもしれない」と、割り切って、話してくれるその日を待つことにしましょう。
・・・それでも、聞きたくてうずうずしますよね。また、「その日」は本当にくるの? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ここからは私の経験談になりますが、私から両親への「その日」は、今でもきていません。学校に行かなくなったばかりのころは、手っ取り早くわかりやすい理由を言っていたような気がしますが、そこから時を経て思うことが変わり、もしかしたらこれが本当の理由だったのかも、ということにたどり着いた・・・、いや、着いていないかな? いずれにせよ、明確でもあいまいでも、私は両親に理由を打ち明けていません。
一度、学校に行かなくなってあまり経たないころでしたが、母の知り合いでお子さんが学校に行きづらくなった方がいる、ということで、
「その人にさぁ、いろいろ気もちとかを教えてあげてくれないかな」
なんであんたに言われて話さなきゃいけないのさ。と思ったことを覚えています。
そのころの私は、学校に行かない・行けないことに対してものすごく否定的だったので、その否定していることを、何でわざわざ掘り起こさないといけないんだと。自分の意思で話すんならともかく、何で(親ではあるけど)他人に言われて話さなきゃいけないんだ、と。
繰り返しになりますが、無理に理由を尋ねようとしたり、無理に話をさせようとするのは、避けてほしいなと思います。
それでも! これも繰り返しになりますが、気もちをどうしても知りたい! そんなときには、「学校に行かなかった経験者が語るイベント」とかも、いいのではないでしょうか。
対談形式、シンポジウム形式、講演形式、いろいろありますが、だいたい共通してるのは、学校に行け(か)なくなった経緯、行かなかった間に起こったこと・家族や周囲とのかかわり、その後現在に至るまで、あたりを盛り込んでいることでしょうか。
自分のお子さんとは経緯は違うかもしれない、思うことも違うかもはしれないけれど、「もしかしてこうなのかな」と推測するポイント、思わず「そうそう!」とうなずくポイント、そして「我が家だけじゃないんだ」と思えるポイントが、演者さんが話す言葉のあちこちに隠れています。
個人的には・・・、ごめんなさい、この手のシンポジウムなどを何度も聞いているのもあって、「結局は同じ結論なんだよなぁ」と飽きてしまったのですが(笑)、学校に行け(か)ない子ども の気もちを知りたい! という方には、ぴったりだと思います。
最近だと、遠方でもオンラインでの参加ができたりなど、知りたいと思った情報が以前よりも入手しやすくなったなという気がします。情報を得て、できるだけたくさんのつながりを見つけていくと、それまでの当たり前や言い伝えなんかが、ちょっとちがった角度で見えてくる、こともあるかもしれませんね。
最後に余談ですが、見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「○○に相談してみた」「(心理士や社会福祉士などの専門職)と相談しながら」など、フリースクールに見学に来る前に一旦どこかに相談をしていたり、利用するのと並行して他も利用してみるなど、すでに他にもつながりを求められている(もたれている)保護者の方が、以前よりも増えたなぁという印象です。
たくさんつながりを知っておくことで、入ってくる情報もそれだけたくさんになります。その中から「どうすることがいいんだろう?」と試行錯誤しながら、よりよい方向を目指せていけたらなぁと思います。
そういえば最近、サッカーのニュースって聞かないな、と思っていましたが、たぶん「自分が気にしていないだけ」という結論に落ち着きました。以前は試合ごとにテレビ中継がないかと新聞のテレビ欄を穴が開くぐらいじぃっと見ていたし、国際試合も結構見ていました。
そうか、以前に比べてサッカー自体を見なくなってしまったので、情報も自分にとってはあまり必要じゃなくなったんだ。「興味のあることだからたくさん情報を入手しよう」が、「たくさん報道されている!」と思い込んでいたのかもしれない。
知ろうとしないと、情報って入ってこないものなんだ! と、当たり前のことかもしれないけれど、改めて気がつきました。
「学校に行けない・行かない」ことも、これに似ているなぁと思います。
見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「子どもの気もちがわからない」「学校に行かないって、たぶんこの子はどこかがおかしいとかではないと思うのだけど、どうしてそうなるのかがよくわからなくて」とおっしゃる保護者の方が、これまでに何名かいらっしゃいました。
多くの場合、「学校」が当たり前に存在し、当たり前に通っていたのではないか、と思います。それでうまくく場合はそれでいいんですが、そうでない場合もある。多くの人にとっては何ともないことでも、一部の人にとっては、それが苦手なこともある。
学校に行かない・行けない状態は、何か特別な事情があるというよりも、「誰でも、どの子でも起こりうる」と、今ではだいぶ認識はされているかなと思いますが、とはいっても、保護者の方自身が「学校」という道を通り抜けてきた以上、保護者の方自身が経験していないことに対する気もちを知るのは、とても難しいことだとも思います。
では、そんなときはどうするか?
簡単です、「尋ねてしまえばいい」んです。
ええ、簡単なんですが、最初から気もちや理由の整理が明確にできていれば、すぐに答えが出てくるかもしれません。ところが、そうでないこともある。口に出して話せるほど自分の中で整理できていないことも考えられるし、親を余計に心配させてしまうかもしれない、傷つけてしまうかもしれないと子どもの側が推し量って、あるいは話すのが恥ずかしいというのもあって、尋ねてもなかなか話そうとしない。
話そうとしないなら、それでOK。そこから無理に尋ねよう、話すようにさせようとせず、「今は整理ができていないのかもしれない」と、割り切って、話してくれるその日を待つことにしましょう。
・・・それでも、聞きたくてうずうずしますよね。また、「その日」は本当にくるの? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ここからは私の経験談になりますが、私から両親への「その日」は、今でもきていません。学校に行かなくなったばかりのころは、手っ取り早くわかりやすい理由を言っていたような気がしますが、そこから時を経て思うことが変わり、もしかしたらこれが本当の理由だったのかも、ということにたどり着いた・・・、いや、着いていないかな? いずれにせよ、明確でもあいまいでも、私は両親に理由を打ち明けていません。
一度、学校に行かなくなってあまり経たないころでしたが、母の知り合いでお子さんが学校に行きづらくなった方がいる、ということで、
「その人にさぁ、いろいろ気もちとかを教えてあげてくれないかな」
なんであんたに言われて話さなきゃいけないのさ。と思ったことを覚えています。
そのころの私は、学校に行かない・行けないことに対してものすごく否定的だったので、その否定していることを、何でわざわざ掘り起こさないといけないんだと。自分の意思で話すんならともかく、何で(親ではあるけど)他人に言われて話さなきゃいけないんだ、と。
繰り返しになりますが、無理に理由を尋ねようとしたり、無理に話をさせようとするのは、避けてほしいなと思います。
それでも! これも繰り返しになりますが、気もちをどうしても知りたい! そんなときには、「学校に行かなかった経験者が語るイベント」とかも、いいのではないでしょうか。
対談形式、シンポジウム形式、講演形式、いろいろありますが、だいたい共通してるのは、学校に行け(か)なくなった経緯、行かなかった間に起こったこと・家族や周囲とのかかわり、その後現在に至るまで、あたりを盛り込んでいることでしょうか。
自分のお子さんとは経緯は違うかもしれない、思うことも違うかもはしれないけれど、「もしかしてこうなのかな」と推測するポイント、思わず「そうそう!」とうなずくポイント、そして「我が家だけじゃないんだ」と思えるポイントが、演者さんが話す言葉のあちこちに隠れています。
個人的には・・・、ごめんなさい、この手のシンポジウムなどを何度も聞いているのもあって、「結局は同じ結論なんだよなぁ」と飽きてしまったのですが(笑)、学校に行け(か)ない子ども の気もちを知りたい! という方には、ぴったりだと思います。
最近だと、遠方でもオンラインでの参加ができたりなど、知りたいと思った情報が以前よりも入手しやすくなったなという気がします。情報を得て、できるだけたくさんのつながりを見つけていくと、それまでの当たり前や言い伝えなんかが、ちょっとちがった角度で見えてくる、こともあるかもしれませんね。
最後に余談ですが、見学にいらっしゃる方のお話しを伺っていると、「○○に相談してみた」「(心理士や社会福祉士などの専門職)と相談しながら」など、フリースクールに見学に来る前に一旦どこかに相談をしていたり、利用するのと並行して他も利用してみるなど、すでに他にもつながりを求められている(もたれている)保護者の方が、以前よりも増えたなぁという印象です。
たくさんつながりを知っておくことで、入ってくる情報もそれだけたくさんになります。その中から「どうすることがいいんだろう?」と試行錯誤しながら、よりよい方向を目指せていけたらなぁと思います。
日本は、子どもの権利条約批准国です。
子どもの権利条約は、正式名を「児童の権利に関する条約」と言います。
子どもの権利条約は、「児童の権利に関する宣言(1959年)」の精神を踏まえて、1989年に採択されました。子どもの基本的人権が国際的に保障されていることを定めたもので、日本は1994(平成6)年に批准しました。
と、太字部分は、某スタッフから借りた保育士試験のテキストより。
批准(意味)
そう、日本も子どもの権利条約批准国、なんですよね。
けれど、本当にそう? と思えるような場面に、何度か出くわしたことがあります。
先の投稿であげたものもそうですし、私自身、過去には子どもを恫喝して従わせようとする場所で働いていたことがあります。生意気だ! うるさい、黙れ! と反論させない大人の姿に、
「この子にだって理由があるのだろうに、一切聞こうとしないのは、どうなんだろう」
と疑問に感じていました。その姿に疑問を感じていたので、一方的に怒鳴るのはやめようと決めて子どもに接していたら、
「もっと怒鳴らなきゃ。子どもになめられるわよ」
なんて言われて、え~? とも思ったものです。
そのころの私は、子どもの権利条約という言葉さえも知りませんでしたが、時期としては2000年代前半のことだから、日本が批准したよりもあと、ということになります。
子どもの権利条約の最大の特徴は、何といっても「子どもを権利を使うことのできる主体」と保障した点にあると言えると思います。
以下、子どもの権利条約にて「子どもの最善の利益」「意見表明権」について定義された条文です。
第3条
第1項
児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的もしくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする(児童の最善の利益)。
また、第12条には、
第1項
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する(意見表明権)。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢および成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
とあって、子どもにとって最善の利益は何であるかと子どもを取り巻く周囲が考慮すること、子どもも自分の意見を表明することができることを明記しているわけです。
ただ、日本が子どもの権利条約に批准している国であると知っている人はどのぐらいいるのかというと、実は知らない人の割合が結構多いんじゃないかと感じています。
また、子どもにもこんな権利があるんだというと、
「そんな条約があるから、子どもはつけあがるんだ」
と反論される方も、いるかもしれません。
これは、「誤った権利のとらえ方」だと思うのです。
「僕らには子どもの権利条約があるんだぞ! 意見を表明していいんだぞ!」
と、子どもが使うのも、私は「誤った権利の行使の仕方だと思います。
子どもの権利条約は、頭や感覚では何となくわかっていることを、文章として形にしたものだととらえていて、子ども以外にも様々な権利があります。権利があるのは子どもだけではなく、自分がよりよく生きるために、また相手もよりよくあるために、権利が存在するのだと踏まえられたら「子どもはつけあがるんだ」という発言も、「意見を表明していいんだぞ」と言うのも、誤った認識だと思って。
子どもを含む様々な権利があると知ることは、相手を思いやることも、自分のことを大切にするのにも、大切なことだと感じています。
だからこそ、子どものうちから、子どもの権利条約を知ること、学ぶことをしたほうがいいなと思うのですが・・・。今を生きる子どもたちの中で、子どもの権利条約について知っている人って、どのぐらいいるのかな・・・
最近、鉄道系youtuberと呼ばれる方たちの動画を見るのが好きです。
私自身が旅行好きというのもあるし、旅行といえば車よりも電車の思い出があるので、私も楽しんで見ています(車も、今住んでいる関西圏より、北陸・上信越ならバッチリです)
見ていて思うのは、「本当に好きなんだな」ということと、伝えるのがうまいなぁということ。
私自身、見知らぬ土地に行くのも好きだし(目指せ! 47都道府県踏破!)、そこへ行くまでにどんなルートがあるんだろう? と知るのも好きです。
以前用があって、長野の諏訪まで行くというときに、
・一旦東京まで行かないといけない?(東京=新幹線で品川、山手線で新宿から、特急)
・静岡乗換えでも行ける?(静岡まで新幹線、身延線に乗り換え、甲府から諏訪まで)
・名古屋から中央線へ乗り換えたほうがいい?(名古屋まで行き、特急で中央線の乗り継ぎ)
できるだけ急ぎで、かつ料金がいちばん安いのはどのルートだ? と調べて、結果、名古屋ルートになった覚えがあります。名古屋ルートも、新幹線を使うべきか、それとも私鉄特急かと迷い、このときは時間優先だったので新幹線だったかな。
青春18きっぷの季節であれば鈍行旅なんかもいいし、それこそ帰省に18きっぷを使ったり、私鉄の株主優待券でこちらも鈍行旅、なんていうこともありました。
鉄道に限らなければ、バス、船という方法なんかもありますね。
そのときによって時間優先か、安く上げること優先か、指定席を取っておくべきか、そうでないかと考えて、最善と思われるルート・手段を選んでいる感じです。
・・・というと、否定されたことがあります。
「そんな、ケチケチしてないで特急の指定席ぐらい取ったら?」
「鈍行旅なんて、疲れるだけじゃん。時間もったいないし」
その人にとっては「特急電車に乗るのが最善」「早く着くのが最善」だったのでしょう。以後も会うたびに
「○○行きの切符は取ってあるの?」
「前もって予約してないなんておかしい」
「また鈍行旅? いい加減にしたら?」
と言われるので、いちいち答えるのが面倒になってきて、それなりにかわすようになりましたが・・・。
(余談、「席が空いていれば」「年齢制限」などの条件はありますが、飛行機だと、直前に手配すると驚くぐらい安くなることもあるみたいですよ!)
小学校のときの話。
その先生は、富士登山を例にあげていました。
「5合目まで車で行って、そこから登る」
「下からずっと登っていく」
「ヘリコプターで頂上まで行く」
どんな形であれ、「富士山の頂上まで行く」という目的が達成できれば、いいんだということ。
算数の、長方形が2つ重なったような形の面積を求めるときに、たとえとして用いた話だったかな、と思います。
じっくり登りたい、途中の車であがっていく過程も楽しみたい、楽をしたい。人それぞれの考え方であって、同じ目的に向かっていることに変わりはない、と。
ならば、いくつも方法を知っておくことも大事だし、考えた結果選んだ方法が目的を達成するものなのであれば、本来否定されるものではない、はず。
ひとつの方法だけが正しいと言いきってしまうのはちがうんだ、と、私が思い出すきっかけとなっているエピソードです。
人によって「最善」はちがうのだから、ならばできる限りの「最善」を提示できるよう、たくさんの情報をつかんでおくことも大事だし、(犯罪に差し障ることでない限り)どれを選ぼうとその人の選択を応援するのが、本来の「相手を大切にする」ことだよなぁと考えています。
私自身が旅行好きというのもあるし、旅行といえば車よりも電車の思い出があるので、私も楽しんで見ています(車も、今住んでいる関西圏より、北陸・上信越ならバッチリです)
見ていて思うのは、「本当に好きなんだな」ということと、伝えるのがうまいなぁということ。
私自身、見知らぬ土地に行くのも好きだし(目指せ! 47都道府県踏破!)、そこへ行くまでにどんなルートがあるんだろう? と知るのも好きです。
以前用があって、長野の諏訪まで行くというときに、
・一旦東京まで行かないといけない?(東京=新幹線で品川、山手線で新宿から、特急)
・静岡乗換えでも行ける?(静岡まで新幹線、身延線に乗り換え、甲府から諏訪まで)
・名古屋から中央線へ乗り換えたほうがいい?(名古屋まで行き、特急で中央線の乗り継ぎ)
できるだけ急ぎで、かつ料金がいちばん安いのはどのルートだ? と調べて、結果、名古屋ルートになった覚えがあります。名古屋ルートも、新幹線を使うべきか、それとも私鉄特急かと迷い、このときは時間優先だったので新幹線だったかな。
青春18きっぷの季節であれば鈍行旅なんかもいいし、それこそ帰省に18きっぷを使ったり、私鉄の株主優待券でこちらも鈍行旅、なんていうこともありました。
鉄道に限らなければ、バス、船という方法なんかもありますね。
そのときによって時間優先か、安く上げること優先か、指定席を取っておくべきか、そうでないかと考えて、最善と思われるルート・手段を選んでいる感じです。
・・・というと、否定されたことがあります。
「そんな、ケチケチしてないで特急の指定席ぐらい取ったら?」
「鈍行旅なんて、疲れるだけじゃん。時間もったいないし」
その人にとっては「特急電車に乗るのが最善」「早く着くのが最善」だったのでしょう。以後も会うたびに
「○○行きの切符は取ってあるの?」
「前もって予約してないなんておかしい」
「また鈍行旅? いい加減にしたら?」
と言われるので、いちいち答えるのが面倒になってきて、それなりにかわすようになりましたが・・・。
(余談、「席が空いていれば」「年齢制限」などの条件はありますが、飛行機だと、直前に手配すると驚くぐらい安くなることもあるみたいですよ!)
小学校のときの話。
その先生は、富士登山を例にあげていました。
「5合目まで車で行って、そこから登る」
「下からずっと登っていく」
「ヘリコプターで頂上まで行く」
どんな形であれ、「富士山の頂上まで行く」という目的が達成できれば、いいんだということ。
算数の、長方形が2つ重なったような形の面積を求めるときに、たとえとして用いた話だったかな、と思います。
じっくり登りたい、途中の車であがっていく過程も楽しみたい、楽をしたい。人それぞれの考え方であって、同じ目的に向かっていることに変わりはない、と。
ならば、いくつも方法を知っておくことも大事だし、考えた結果選んだ方法が目的を達成するものなのであれば、本来否定されるものではない、はず。
ひとつの方法だけが正しいと言いきってしまうのはちがうんだ、と、私が思い出すきっかけとなっているエピソードです。
人によって「最善」はちがうのだから、ならばできる限りの「最善」を提示できるよう、たくさんの情報をつかんでおくことも大事だし、(犯罪に差し障ることでない限り)どれを選ぼうとその人の選択を応援するのが、本来の「相手を大切にする」ことだよなぁと考えています。
Children are people.
2011年2月に開催された、第3回日本フリースクール大会(JDEC)にて、パット・モンゴメリーさんの発言の中の一節。通訳がついてはいたけれど、この一文は通訳を介さなくても聞き取れた。
パット・モンゴメリー
(創設したクロンララ・スクールについてのwikipediaですが)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
どんな学びの場でも大事にしている6つのことがある、とお話しされた中の一番目が冒頭の、Children are people. だった。この文をパットさんは2回言ったことを覚えている。
私は、それだけ大事にしていることだから、2回言う(強調する)よ、と受け止めた。
6つのうちの一番目、という点からも、それだけ大事なんだろう、と。と同時に、私が過去に働いていた場所のことを、ちょっと思い出したりもして。
「当事者から学ぶ」というのは、あくまで自分の感覚になってしまうけれども、なんとなく感じていて。学校に行けない・行かないということに対して家族内でさえ誤解があったし、外部で言われていることに「そうじゃないのに!」と思ったこともあるし、結果たどり着いた答えが、「その立場でないとわからないんだ!」ということだった。
前回のこととも重なるけれど、推測でならいくらでも語ることができる。じゃあ実際はどうなの? は、実際に体験した立場や、その中に身を置いている人でないとわからないんだ、と。
であれば、今の子ども事情は、大人が見た子どもではなく、「子ども自身から」教えてもらうのがスジじゃないか。
そう思ったら、相手が子どもと呼ばれる人でも、こちらが学ぶことはたくさんある。子どもか大人かって、単に生きた年数・経験の数の違いじゃないか。であるなら、同じ人であることには変わりないじゃん! と。
よぉし、子どもからたくさん学ぶんだ! と意気込んで、子どもと関わるある場で働いてみたら、子どもを思いきり威圧するような場で、かえって私がしんどくなり。
「私の感覚はちがったんだろうか」と、揺らいでいたときに、別の子どもと関わる場で働き、今度は子どものことを一人の人として本当に大切にしようとしている場で、今度は「私が思っていることはたぶん間違っていなかった」と、小さな自信になり。
その後、パットさんの冒頭の言葉を耳にして、確信に変わり。
今、言ったことが日常的にできているかというと、そこは大いに自信のないところだけど(汗)、相手がどの立場であれ、一人の人として接するということは、これからも大切にしていきたい(できていなかったら、ぜひ教えてください!!)
・・・と思っていたら。
こんな記事があって、う~ん、なんとも。いつの時代の話?
「バカヤロー」放課後児童クラブ責任者、威圧発言繰り返す 豊田 | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20211105/k00/00m/040/142000c
この人に、パットさんの言葉を伝えられるなら、どう響くんだろうか・・・
https://mainichi.jp/articles/20211105/k00/00m/040/142000c
この人に、パットさんの言葉を伝えられるなら、どう響くんだろうか・・・
そしてこの記事を見て、「子どもの権利条約」について考えてみたい、と、改めて考えた。
ずっと、○○してみたい、で終わってるな、子どもの権利条約。何となくこういうもの、という程度ならわかるけれど、今こそしっかりやってね、というお達しなのかもしれない。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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