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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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子どもが学校に行かなくなり、「さて、どうしよう」と困ったり悩まれたとき。皆さんはどこに相談されるでしょうか。
 
検索サイトに「子ども」「不登校」「大阪」など、いろいろとキーワードを入れて探してみると瞬時に探し出してくれますが、その中でも民間の代表的なものとして、「親の会」と呼ばれるものがあります。
 
親の会ではどんなことをしているかというと、会によってその内容はさまざまですが、近況報告や、初めて参加された方がどういった経緯で親の会に来たか、から始まり、各参加される方たちが「自分にもそんなことあったな~」とか「こんなふうにしたら、変わったよ」など、経験を語り合う時間。
時々、講師をまねいて(ミニ)講演会や学習会を開催したりも、しているかもしれません。アドバイスもあるかもしれませんが、ベースは「経験したこと」の「共有」。

今でこそ、インターネットで学校に行けない・行かない経験は、調べて閲覧でき、以前のように「学校に行け(か)ないなんて、きっとうちだけだ・・・」と「孤立しやすさ」の面では、今は少し減ってきているように思いますが、そんな時代でも、「あえて会という場」に出て語ることによって、文字だけでは伝わらない、言葉尻や表情などの微妙なニュアンスまで伝わりやすいように思います。
 
また、「文字にする」ことでも多少はできますが、「言葉にして口から発する」ことで、自分が今こう思ったり感じたり、不安だったりうれしかったり・・・が、より強く感じられ、自分自身を瞬時に客観視できる・・・ような気が、私はします。
 
ここにあげた親の会の様子は、ほんの一例ですが、場所によっては実際に学校に行け(か)ない立場だった方が参加されていることもあります。親側が思うことのみではなく、子どもからの視点での声を聞けるのは、とても貴重です!!
 
「お互いの傷をなめ合っているだけ」
「自分のいやだった記憶を思い出してつらかった」
「『そんなこともあったわ~』と笑われたことが、『今の自分は笑えないのに』という思いと重なり、しんどくなった」
などの声が聞かれることも、事実としてありますが、「自分以外の同じような悩みをもつ方に会えてよかった」という声があるのも事実。気になる場合は、事前に問い合わせてみたり、実際に一度足を運んでみるなどしてみても、いいかもしれません。
 
 
 
さて、私も先日久しぶりに、ある親の会に参加しました。久しぶりの参加だったので、駅から会場までが少し遠く感じられたのですが、帰りは同じ道を通ったにも関わらず、道のりが短く感じられました。
親の会に参加した帰り道は、不思議とすっきりしたような気もちになります。
 
すっきりしたら、お腹がすきました。
ちょっとボリューミィなものでも食べて帰ろうかしら♪
 
 

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毎週水曜日に学校に行かなかった経験を連載中ですが、同じ体験談でも、今日はちょっとちがった体験談。ですので、カテゴリ「思うこと」でアップします。


寄せられた内容を見て思ったのですが、身近な存在からの「いじめ」は、あえてカテゴリ分けするとしたら、虐待となるのでしょうか。こんな例もあるんだということを知ってほしいとの訴えから、ブログに掲載いたします。



< 家族内でのいじめ >


いじめは、よく学校、会社で、友人関係の中で(たとえばママ友)起こると思われていますが、実はもっと身近な家族の中でもいじめが起こるのではないかと、私は思います。
私は、かつて学校に行かない経験をしました。家族のことが関係してきますので、当時の家族構成をお話ししますと、両親と、同性のきょうだいが下に2人。私は学校に行かなかった時代がありますが、きょうだいは2人も幼稚園や小学校、中学校をほぼ休むことなく通っていました。

 
もう少し言うと、私のきょうだいは皆見た目が異なり、3人で歩いていても「友人同士ですか?」と尋ねられ、「きょうだいです」と答えると、「・・・では、こちらとこちらが?」と、考えた末に下のきょうだい2人がきょうだいで、私は一緒に来た友人だろうか? と思われるぐらい、似ていません。
私も背がさほど高くなく、それでいて体重は多め、いわゆるぽっちゃり体型。きょうだいは私よりも背が高かったり、私よりも背は低いけれど細身だったり。
 
私自身がそんな体型だったこともあって、私自身はよく、きょうだいからからかいを受けました。
 
坂道などでは
「ほら○○(私のこと。以後も)、早く転がりなよ。歩くより転がったほうがスピードついて速いんじゃない? それだけ丸いんだし」
 
またあるときは、テレビにブタが映し出され、
「あ、○○の友達だ!」
アニメのブタのキャラクターには、
「ほら、○○、テレビ出てる」
このキャラクターというのは、うさぎのミッフィーで有名なディック・ブルーナのシリーズに、「ブタのポピー」というのがいるのですが、
 
「ポピー ポピー ブタのポピー かわいいポピッピー」
 
という歌詞の歌がありました。ポピーが出てくると、きょうだいは
「ほら、テレビ出てるよ」
といったあとでこの歌に合わせて
 
「ポピーポピー ブタのポピー ブースなポピッピー」
 
と、笑いながら私を見て、2人で替え歌を歌うのです。
  
★ ブタやポピーが悪いとか、そういうことを言いたいわけではありません。私をからかうネタとして使われていた、という認識でお願いいたします。
 
ぽっちゃりしていることをからかわれ、やめてよ、とは言えませんでした。
 
なぜなら、
「じゃあ、もっとダイエットすれば~? なってみたら? こんな体型に」
と返ってくるのがわかっていたからです。
同じものを同じぐらい、いや、きょうだいのほうが多かったかもしれません。食べているのに、私は食べたら食べただけ太る体質、身内は食べても太らない体質。ゆえに、「痩せ型」といわれる体型。それが自慢で、時々自身がやせていて、着たいと思ったらどんな服でも着られる、サイズに困らないことを鼻にかけていると思われるシーンがある身内でした。
 
さらに私が何も言えずにいると、
「どうせムリだよね~。学校行ってないんだもん」
と返されることまでわかっていたため、さらに何も言えなくなっていました。
ダイエット自体は、家でもできたかもしれません。学校に行けないことと体型のこととは何の関連もないにも関わらず、「学校に行けない自分はダメな自分だ」とずっと思っていた私には、学校に行っていないあんたが痩せられるわけがない、と言われているような気がして、でも学校に行っていないことは事実で、何も反論ができなかったのです。
 
 
 
そのころからかなりの年月が経過し、今では私やきょうだいにも家族と呼べる存在ができました。最近、帰省したときのこと。
 
「そういえば○○、今ではきれいに痩せたね」
「あのときの『ポチャこ』じゃなくなったんだね」
 
両親としては何気なく言ったつもりだったでしょう。
しかし、私としては両親が想像していないぐらい傷つき、ずっと引きずっていたことでした。
私自身もずっと傷だったと気がつかなくて、何気なく言われて思い出したのが、正確なところですが。
 
ずっと身内から、しかも自分よりも年齢が下の者からからかわれ、嫌な気持ちになり、さらに重ねると、こういったからかいなどは週のうちでも何度もあったのですが、それを知っていたはずの身内の誰もが止めなかったのです。
替え歌を歌うなどして主にからかっていた、きょうだい1。それを見聞きして笑っていた、きょうだい2。知っていたはずなのに「やめなさい」と止めなかった、両親。
 
どうしてあのとき、止めてくれなかったの。親なら、身内なら、何で守ってくれなかったの。
 
 
相手がどうであれ自身がいじめだと感じるなら、それはいじめだと言う人がいます。
さすがにそれは大げさだろうと思い、とりあえず明確にされている定義に沿ってみたところ、一方的に身体的なものはなかったにせよ、心理的には傷つけられ、それを今でも苦痛であると感じていること。
「四層構造」の中に、このときの登場人物がすべて当てはまること。
 
こういった定義に沿えば、私がいじめを受けていた、と、自己弁護的になりますが、言えるのではないかと思います。
がしかし、定義にもあるように、背景は、内外の文言こそあれど「学校」がベース。家庭の中でのこういった状況は、いじめであると言えるはずなのに、いじめと言えないようです。
 
 
参考サイト:
 
 
 
家族内の問題だから、解決は家族内でして。
皆さんはそう思うでしょうか。
しかしその家族内での関係がこのようにいびつな状態で、どうやって家族内で解決すればよかったというのでしょうか。
  
 
皆さんには、知ってほしいです。
いじめは、学校や社会などの外の世界のみで起こるものではない。
もっと身近な、家庭内でも起こりうるということを。



皆さん、小学校、中学校などで「学級会」があったかと思います。クラスのことや、校内委員会からクラスごとに話し合ってほしいと依頼があったことを話し合う場のことです。

 
あれ、好きだった人、いますか?
 
私はどうにも苦手でした。普段の授業中も積極的に発言をするほうではなかったけれど(週1~2回ぐらいはしていたような気はするけど)、学級会となると本当に黙っていました。
 
あるとき、クラスのスローガンを考えようということになり、いろんな意見を出すよう、司会の子が発言を促しました。
それでも、出た意見は2、3。ほかに意見はないかと尋ねても、誰からも手はあがらない。
 
そのうち司会が、適当に他の子を当て始めます。このとき当てられる子というのはだいたい決まっていて、言葉は悪いですが、いわゆる「勉強も運動もできない子」が、そのターゲットになっていました。
 
私も、実はよく、この当てられる中に入っていました。
「まだ考え中です」といういいわけが通用しないほど、もう時間は経っていたので、仕方なく、その場で適当に思いついた言葉を言いました。
 
ところが、これが案外ウケがよく、その後の意見は、皆、「○○さん(私)の意見に賛成です」。
あれ? もしかして私の意見がスローガンになるかな? そう思い始めた矢先のこと。
 
学級会となるといつもイライラしている(のが、すぐにわかる人でした)担任教師が、口を開きました。
 
「お前らなぁ、これ、すべて『目標』にあっているか?」
 
スローガンの言葉を決める前に、目指したいこと――目標を3つぐらいあげていたのですが、担任は、すべてにダメ出しをし始めました。1の意見は○○が足りない、2の意見は△△が足りない、3は、意味がわからない、などなど・・・
 
結果、クラスの子どもから出た意見は、すべて担任からしたら「アウト」。もちろん、私の意見もです。
 
そしてどうなったかというと、
「どうせお前らじゃ決められないから、俺が決めてやる」
と言わんばかりに、別の言葉を提案してきたのです。
 
あれ? でもこれも、△△を達成していないな・・・と私は思ったのですが・・・。
 
「先生の意見がいいと思います」
みんなこぞって、そう言い始めました。誰も、先生の意見はおかしいです、って言う様子なし。いまどきの言葉で言ったら、「忖度」ですかね。
 
 
自分の意見を出した子どもは、片っ端から否定されて、どう思ったでしょうか。
 
その後のどの学級会でも、なかなか意見が出ずに苦労するというシーンは、続きました。
 
 
・・・今思えば、当然ですよね。だって、いくら意見を言ったって、結局覆されるんだもん。言うだけ言ったって無駄だってわかってりゃ、誰も言わなくなりますよね。
 
なのに、担任は「お前ら意見のひとつも言えないのか」ってて、よく言ってたなぁ・・・。
活動時間短縮であったり、1日お休みをいただいたり、このところ活動時間の変更が多くなっております。
その時間に何をしているかといいますと、今度フリースクールの活動でこんなところに来てみたいなとか、こんなことをしてみたいなと思うところを、実際に見て回ったり、活動に役立ちそうな講座や催しがあればそちらへ駆けつけてみたりしております。
 
そのうちのいくつかで、こんな声を耳にします。

「(フリースクールと聞いて)えっ、それは何ですか?」
「どんなことをされているんですか?」
「どんな年代の方がいらしてるんですか?」

こんな声は、当然フリースクール関係者ではなく、そのほかの分野にいる方から聞かれます。
つまりは、まだまだ私たちも、アピールが足りないということだなと、痛感しております。
さらに言うと、自分に興味のあることや気になったことは調べたりするけれど、興味がないとなかなかしませんよね(汗)。私も、世界の歴史の話になると、あれっ、急に眠気が・・・。


こんな声は、実は他分野にいる方たちだけではありません。
「実はいちばんに情報を届けたい方」からも、聞かれるのです。
 
「不登校の親の会」というのがあり、そこでは、現在お子さんが学校に行っていなかったり、かつて行かなかったり、あるいは自身が行っていなかったという人が参加しています。・・・そういう場が多いと思うのですが、その会でほぼ必ずといっていいほどあるのが、現在悩まれている方のご相談。
 
学校に行かなくなって先が不安。
このままだったら取り返しのつかないことになる。

などなど・・・。
 


そこでいつも思ってしまうのです。

ラヴニールも含めて、各フリースクール等の多くはホームページを公開していて、その活動内容などを公開しています。大阪市内だけでも東西南北あちこちにあり、活動内容も様々です。
そしてそこに通っている子どもたちは、決して将来を悲観することなんてなく、自分でこうなりたいな、という道に進んでいます。
 
・・・という事実を知っているだけに、ああ、もったいない! って思ってしまうのです。
本当にこの情報を必要としている人に届けるには、どうしたらいいのでしょうか?

私たちが発信している情報。
その情報を、受け取る側の人。

このあいだには、一体何があるのだろう?
ラヴニールの代表である私は、現在子育て真っ最中でもあります。日々成長する我が子とのかかわりの中で、「そっか、こういうことなんだ」と、すっと腑に落ちたというか、そんな経験がありました。

フリースクールに関わる私たちだけではなく、様々な支援的なかかわりをしている者同士、「信じて待つ」ということで時には議論になることがあります。

いつまでも待っているだけじゃなくて、何かアプローチをしていかないと、いつまでも状況は変わらないんじゃないか。
こちらが何かするのは、相手をそれだけ信頼していないってことになるんじゃないか。

どれだけ「信じる」べきか。
どのぐらい「待つ」べきか。

時に極端に「する・しない」の対立が起こり、選択肢が2択しかない、そんな状況が生じることもあります。



さて、「すっと腑に落ちた」話の本題。

先日、子どもが洗たくカゴの中におもちゃを落としました。洗たくカゴの高さは、子どもの腰よりも少し高いぐらい。手を伸ばしておもちゃを取ろうとするも、届きません。
 
私は、さて、ここでどうするんだろう? って、ほぼ興味本位で、我が子を観察することにしました。同時に、我が子の次の行動を想像してみました。
私の頭には私か夫を呼ぶか、一生懸命取ろうとしてる姿をアピールして「取って♪」の、どちらかかな、と思っていました。
 
すると、我が子は。
 
まず洗たくカゴを倒し、カゴの中にあった洗たくネットをよけて、落としたおもちゃ以外はすっかりからっぽになったカゴの中に体ごともぐるように手を伸ばし、見事におもちゃゲット。
思わず、
「うわ~、頭いい!」
と言ってしまいました。

私は、「我が子は誰かに頼る」ことしか考えていませんでした。それを欺くかのように、我が子は自分ひとりでおもちゃを拾って見せた。本当に、見事に裏切られた感じです。
 
そのときふと、思いました。

もしかして我が子は、私が思っている以上にいろいろできるのかもしれない。
もちろん、「我が子が自分でできるように」と何もかもほったらかしにしておけ、というわけじゃなくて、我が子から何かしら要求があればそれに応えるのも大事だと思います(今回も助けを求めるようであれば、おもちゃを拾うつもりでした)。
 
一方で、「どうせこの子にはできないだろうから」と、何もかも手を出しすぎていやしないか、とも思いました。 
感じたことをうまく文章として表現するのは難しいですが、「信じて待つ」って、もしかして、今あったできごとみたいなことなのではないか、と。そしてその結果が自分の思っていたのとは異なっても尊重することなのではないか、と。

(「尊重してはいけない考えや行動」もあるかとは思いますが(たとえば犯罪性のあるものなど)、ここでは度外視します)


「信じて待つ」のは、言葉以上にもっと深いものがあるとは思いますが、その一端を、頭ではなく体で理解できたような気がしました。


子どもから学ぶ。本当にそうだな、と。
頭でのみ理解した「つもりになっていた」ことが、つながったように思いました。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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