フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
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■ では親は、というと ■
自分としてはこの場所(前回記事の適応指導教室)に週に数日であったり、調子がよければ毎日通ったりしました。母も月に1度か2度、この場所で自分の担当とは別の人と面談を続けていました。まったく別の部屋に分けられるので、何を話していたのかはわかりません。
だいぶあとの話ですが、母が大掃除をしたときに捨ててあった小さなノートがありました。紙ばかりのゴミ袋の中に入っており、ノートの表紙に書かれていた日付が、ちょうど自分が学校に行けなかったとき。これは何かあるかも、と思って、母の目を盗んでこっそり抜き取りました。
こっそりのぞいてみると、どうやら、内容は通っていた場所主導で講演があったときのメモや、面談のときの内容のようです。母は母で、かなりの重圧だったにちがいないと、今では思います。
○月×日
小さいころの出生の状況や家族構成などを尋ねられた。
○月×日
中学生になったAちゃんが、中学進学と同時に学校に戻ったそうだ。行く前にお腹が痛くなるそうだけど、毎日薬を飲みながら、がんばって通っているとのこと。F先生(注、適応指導教室の、母の担当)から聞いた。ヒロも少しがんばれば通えるようになると思うのに、本人からはなかなかその気が見られない。いつまで学校に行かないつもりでいるのか。
○月×日
母(注、おそらく祖母)から言われる。こっちとしては努力しているし、今は学校に行くよう激しく言ってはいけないと言われているのに、早く学校に行かせろと急かされる。
○月×日
義姉のところのBくんが、C大学に合格したそうだ。それを夫と母が自慢げに話してくる。うちは、学校にさえも行けない子どもがいる。自分が劣っているように言われている気がした。
自分が学校に行っていないことが母を苦しめているとわかりました。そうはわかっても行けないものは行けない。行きたいと思っても行けないのです。
自分ができないことを自分の弟はできているのに、どうして自分にはできないのだろう?
できないものはできない。あきらめているとかわけじゃない。やろうとしてもできないんだ。
などの自問自答をしていたことを覚えています。自問自答が続く一方で、逃げのような自問自答もしていました。
「小さいころから甘やかされたんじゃない?ほら、母にも言われたじゃん、『おばあちゃん子で育った子は、何に対しても人の顔色を伺うようになる』って」
自分は、すぐ下に弟ができたときに祖母に面倒を見てもらうことが多かったようです。ただこれが、人の顔色を伺うことと何の関連があるのでしょうか。そのような統計の結果があるなら知りたいぐらいだ。――と言えるのは、もちろん今だからであって、幼少のころや学校に行けなかった当時は、実際に何でもできばえを親に確かめてもらっていました。何でも一度親にチェックしてもらわなきゃ、親の審査を通らなきゃといけないと思っていました。日常的な宿題でさえ、前述のとおり母の採点の名のもとチェックされていたぐらいですから、むしろこれはおばあちゃん子だったからというよりは、母の影響ではないのかと、今では責任転嫁にあたると承知のうえで、思っています。
しかし当時は自分のクセをズバリと言われたことで「ああ、自分はおばあちゃん子なんだ」「おばあちゃんに甘やかされて育ったんだ」と、どこかで納得もしましたが、後者についてはすぐに否定しました。祖母に甘やかされたという気持ちはありません。祖母が自分からの要求に応えることを、他人の視点で「甘やかした」と言うことはできるかもしれませんが、いつもいつも自分の要求に応えてもらっていたというわけではなく、逆に諭されることもあったので、甘やかされたわけではないと思います。
親も親で苦しんでいたことには気づけましたが、当時その悩みを相談していたのは、行っていた場所のスタッフ(ノートのF先生)。かなり年のいった人でした。後で知ったことですが、F先生が自分の親の担当をしていたという子から、F先生がもともとは学校の先生で、少しでも学校に戻れる可能性のある子の親に対しては、最初は無理をさせるなと言いながらも、子どもが少しでも学校に対して興味を持ち出すと、急に人が変わったように強く学校に行くように勧められていたそうです。
相談した相手から言われ、目の前の自分は思うようには動かず、そして元来内気なほうの母は、誰にも思うように相談できなかったことでしょう。今思うと、母は誰ともどこともつながれず(つながっていたとしても、自分を追い込むような人・場所がほとんどだったのではないかと考えられます)、それでよく何事もなかったかのように生きているなと思います。
いえ、何事もなかったかのように、装っているだけなのかもしれませんが。
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■ 学校に行けるようになるなら何でもする ■
あせっても何もできなくて、何もできないけれど遅れていくのは事実で、どうすることもできないなか、担任がたまに自宅に来ていました。母は自分を担任に会わせようとしましたが、担任が無理に会わせなくてもいい、と言ったことが通じたのか、こちらから会いたいと言わない限りは会うことはありませんでした。
その担任から、通っているうちに学校に行けるようになる場所のことを聞きました(後述の余談)。「どんなにつらくても我慢して笑顔で学校に通えるようになります」と、説明の資料には書かれており、何としてでも学校に行けるようにならなくてはいけないと思っていた自分には、とても魅力的な場所に感じられました。早速申し込み、数ヶ月待った後何度かの面接を経て、ようやく通うことが決まりました。
そこに通うには公共交通機関を利用するしかありませんでした。親が送迎をしてもかまわなかったのですが、母は送迎のためだけに特定の場所を往復するのは無理ということで、自分だけで通った日もあります。親が一緒だったのは最初のうちで、次第に、その場所でできた友人と通うようになりました。
親が一緒ならまだちがったと思うのですが、周囲の視線が突き刺さるように感じられました。その場所に向かう時間帯は、通勤通学ラッシュがひと段落ついたころ。自分は制服ではなく、私服。たとえ大人びた格好をしていたとしても、所詮子どもは子ども。
「この時間になぜ子どもが?しかも私服で?」
と思われているのではないかと。
一度のみなら「病院に通っています」と言えるけれど、同じような時間帯の交通機関を利用するので、顔を合わせる乗客もだいたい同じ。これも、もし学校に通っていれば感じるものではありません。周囲の視線は学校に行かない自分への罰だと思いました。
それでも、こういった難点を我慢してその場所へ通えば、またいずれ学校に行けるようになるんだと信じて、できるだけ通いました。ですが、いつまで経っても通えるようになりません。その場所のスタッフからはひとつひとつ課題を出されました。
朝起きて、夜に寝る。
これはすでにクリアしています。
決められたときに決められたことをする。
いやではありません。
外に出かける。
いやではありません。ただし、時間限定ですが。
その次からが難関でした。
制服を着てみる。
見るのもいやです。
私服でもいいから学校の前まで行ってみる。
これも、学校自体見るのもいやです。
同じく、学校の中に入ってみる。
見るのがいやなのに、どうやって入ることができるでしょうか。
同じく、学校の誰かに会う。先生が望ましい。
家庭訪問に来た担任にも会っていないのに。
以下、制服を着て学校に行き誰かに会うこと。授業をひとつ受けてみること、などの段階を踏んだ課題がありました。この課題をひとつずつこなしていけば学校に行けるようになる、と。そんなことがありうるのだろうかと思いましたが、学校に行くためにはこれらをこなせないといつまで経っても行けないままで、一方でこなすのには相応の勇気が必要で、学校に行けるようになることは自分にとってはハードルの高いものでした。
この場所でで出会った友達と仲良くなりました。今でも数人とはたまに連絡を取りあっています。課題さえなければ、ここは絶好の場所だったと思います。しかしそううまくはいかず、たまに担当指導員との面談があって、この課題のどこまでクリアできているか・できていないかを突きつけられます。長い休みの前後には、学校に行くことへの挑戦を強いられます(チャレンジウィークと呼ばれていました)。
一方で忠実に課題をこなし、チャレンジウィークにも学校に制服で行き、通知表を受け取ってくる子もいて、その子のことをうらやましく思ったのも事実です。逆に、夜起きて朝に寝る、課題面でいえば後退する子もいて、その子のことを冷たい目で見つつも、昼夜逆転できるのがうらやましいと思っていました。
余 談
どうやら自分が行っていた場所は、適応指導教室と呼ばれる場所だったようです。適応指導教室といっても全国規模で見ればいろいろで、自分が行っていたところは市の施設でした。中には民間委託という形だったり、もっと小さな行政単位で開催されている場所もあるようです。その場所によって内容もちがってくるとは思いますが、自分が行っていたところは、段階を踏んで課題を出され、最終目標は学校に復帰することに設定された場所でした。学校には戻らないと頑なに拒む子もいたので、そういった子には不向きな場所だったかもしれません。
■ 学校に行けなくなるということの大変さ ■
自分自身は学校に行くこと自体は嫌いではないし、でも学校に行けない。行きたいとまでは言えないかもしれないけれど、行かなきゃと思うのに行けない。行けなくなったときから今日までの日が短いほど取り返しもつきやすいと思うとは、よく父から言われました。
「しばらく休んでいても、ほんのちょっとの勇気をもって行ったら大したことないのかもよ」
「『えへへ、ちょっと休んじゃった』で、後は何ともないんじゃない?」
と説得されましたが、こう言われたときには担任だけでなく、あのクラスが、クラスのある校舎が、その校舎に入っていく制服姿の――、と、学校のすべてが見たくもないまでにいやになっていました。
一方で父の言うとおりとも思うのですが、制服の袖に腕を通そうという気持ちになれません。どんどん日数が経っていけば経っていくほど、あせる気持ちは大きくなっていきました。あせってもどうしようもなく、1日が終わっていく感じでした(こういった気持ちから一時的に逃れる手段が、前述のものです)。
もう一方で、自分が再び中学に行けるようになったかもしれない道を閉ざしたのも、父だという思いがありました。あのときおばのところへ行けたなら、今ごろ何もなかったかのように中学に通い、勉強もできていたかもしれないのにと思うと、父が言っていることとやっていることに対して矛盾を感じることもありました。
自分の中では「えへへ」で終わるほど簡単なものではなくなっていました。父は自分の気持ちをわかっていないとも思いましたが、自分としても学校に行かなきゃいけないと思いながらも行けない気持ちをうまく説明できない状態でした。
父は勉強を教えてくれることもありましたが、教えてもらってもほとんど頭に入りません。学校に行けなくなった当初は勉強をしなきゃいけないと思ってはいても、できる状態ではありませんでした。
同じ教室にいた同級生からは、どんどん遅れていく。このまま勉強ができなければ、学校に戻ることはできない。戻っても一人落ちこぼれたまま。落ちこぼれたままでは上位の成績は期待できない。そうすると高校進学が、高校に行けないと大学にも、と、また負のスパイラル。
勉強ができるという意味では、学校はありがたい場所です。学校の教科だけが勉強ではないと理解したうえで言うのですが、自分でやってみてわからなかったところを、学校では一方的だけど教えてくれ、1日5~6時間はいやでも勉強する場が確保されている。そのことがどれだけありがたいかと思いました。
そうは思っても学校に行けないのです。
学校に行けなくなってもっとも大変だったもののひとつは、勉強面がどんどん遅れていくことでした。
■ 不登校中にしたかったこと ■
以上までが、小さいころから学校に行かなくなり始めるまでの自分です。
小さいころから自分は、どうも集団が苦手だったように思います。みんなと何かを一緒にやることは決して嫌いではないので、集団が苦手という言い方をするとちがうのかなと思いますが、集団の中にいると、体格、運動神経、学習面などで常に自分が劣っている対象として比較されるのではないかと思えて、今でも集団でいる必要のないときには一人や少人数で固まっているほうが好きです。
一人集合時間にわざと遅れて和を乱そうとか、みんなと同じ方向を向いて作業をする必要があるのにわざと一人だけ背中を向けていたとか、そういった苦手さではないので、やはり集団が苦手というのとはちょっとちがうのかなと思うのですが、どう言ったらいいでしょう?
ここまでで少し書きましたが、自分が学校に行かなかった間には、物理的にもひきこもりたかったのに、ひきこもらせてもらえませんでした。弟には部屋のドアを開けておくようなルールは課していないので、自分だけプライベートがあってなかったようなものです。
ひきこもること以外にもやりたかったことがあります。
昼夜逆転の生活をすること
ひきこもることを許してもらえなかったので、誰もが寝静まった静かな夜なら実質一人になれるのではないかと思って、夜には起きていて、日の出ているうちは寝ている生活をしたかったです。日中寝ていれば家族の顔を見る確率が減るのと比例して自分を責めることも減るし、深夜ならドアが開いていても誰かに監視されている確率も減ります。
しかしこちらもひきこもりと同じく、昼夜逆転したくてもさせてもらえませんでした。「みんなと同じようにできないといけない」が、母の信条だったからです。このときには、
「朝はみんなと一緒に起きる。ご飯を食べる。夜はみんなと一緒にご飯を食べて、寝なさい」
これが、部屋のドアを開けておくことと同時に自分に課された条件でした。ですが、自分はこれを少し破っていました。起きる時間は弟が学校へ出かけたあと、と決めて起きていました。弟を見送りに母が外に出たら部屋から出て、母が帰ってきたらリビングにいる、というようにしていました。
実際は、朝ごはんの時間にはちゃんと起きていました。ですが、学校に行けなくなった自分と元気そうに学校に行っている弟が同じ食卓につくと、その後弟が学校に行く支度をする姿を見ることになります。弟は学校に行っているのに自分は行けない――。どうしても自分に劣等感を感じてしまうのです。夕飯のときならともかく、朝からその絶望に襲われるのがいやでした。
どうして朝起きられないのかの理由を、母は一度も聞いてきたことがありません。理由を聞かれないまま、母からは何度となく「みんなと一緒に起きること!」と言われました。それでも言われたことを守らずにいると、最終的に母はこう言いました。
「みんなと同じようにできないことを、協調性がないって言うの。わかってる?みんなと同じようにできないことはおかしいことなの!」
ここでもまた、「饅頭の表面だけ」です。自分には意見や考えを言う権利はないようです。
実は、朝一緒に起きたくない理由を言ったことがあります。
「甘え(学校に行かずにいること)を許しているんだから、そのぐらい我慢しなさい!」
何かにおいて、「みんなと一緒」「学校に行かないのは甘え」ということを言われ、特に学校に行けなくなった最初のころはつらい一方でした。自分でもわかっていて、でもできないことを、どんどん突きつけられました。
マンガを読む、ゲームをする、絵を描く、など
何かに夢中になっている間だけは、あらゆる劣等感から自分を解放できました。基本的には下手くそだけど絵を描いていることが多かったです。夏休みの宿題で使わずに余っていたので、小説家みたいに原稿用紙相手にただひたすら文を書く、ということもやっていました。ただいずれもドアを開けっ放しにしていて誰からも覗かれる状態だったので、人の気配がしたならすぐに隠せるようにしていました。隠すぐらいなら堂々としていなさい、と言われたこともあったけど、好きなことをしていたっていつも否定の評価から入っていたうえ、本当に勉強をしていたとしても、「もっとたくさんがんばりなさい」と言われていて、趣味にしても勉強にしても、どれだけやっても誉めてもらえませんでした。それなら堂々としていろと何度言われようが、隠すほうがマシでした。
「マンガやゲームをしている間は気がまぎれた」
と言う不登校経験をもつ人は多いと思うのですが、自分はそうではなかったです。持っていたマンガの冊数は2冊と少なかったし、マンガ雑誌も弟が言い出して初めて買ってもらえたようなもの。我が家にマンガと呼べるマンガはありませんでした。歴史上の偉人について描かれたマンガはありましたが、そのころ人気のあった作品については、後で中古で入手したり、何かの機会に読んだぐらいです。
ゲームも夕方に1日30分までと決められていました。テレビはリビングに1台だけだったので、約束の30分が近づいてくると時間についてうるさく言われましたし、何しろ弟の
「どうせ昼間もやってるんだろ?学校行ってないくせに、ずるい」
という理解のない言葉が痛かったです。
■ 放っておいてくれ・3 ■
弟はと言いますと、見た目は何事もなく過ごしているようで、どこか腫れ物に触るようにしていました。
中学の担任の家庭訪問もありました。当然そのときは部屋のドアを閉め、そして、部屋の片隅に隠れるようにしていました。30分ほど母と話していたでしょうか。担任が帰る、というときです。部屋のドアがノックされました(さすがにこのときは母でもノックして入ってきました)。
「ほら、先生がお帰りになられるんだから、顔ぐらい見せなさい」
自分としては、担任に会いたくありません。
「何をしてるの!先生がいらっしゃっているというのに顔も見せなかったんだから、先生が帰られるときぐらいお見送りしなさい!」
と、自分の腕をつかみ、強引に部屋から引っ張り出そうとします。
「お母さん、いいですよ。ご本人がいるとわかれば、それで大丈夫ですから」
担任の声は聞こえるものの、母には聞こえていたのかいないのか、腕を引っ張り続け、とうとう自分を部屋から出しました。
ただでさえ迷惑をかけている相手です。自分が学校に行ってさえいれば、この家庭訪問だってしなくてすんだはずです。また、どこかで
「この教師がもっとちゃんとしてくれたら、いじめがしっかり解決して、自分はこんなことにならずにすんだのに」
と責任を押し付ける気もちもあって、自分としては担任に顔を見せたくなかったし、会ったら会ったで恨む気持ちが強くなりそうで会いたくなかったのです。
担任が帰ってから、もちろん母に責められました。母は当然、自分が担任に会いたくなかった理由など知らないし、担任でさえ気づいていないのだから、いじめが続いていたことも知りません。
「何なのあの態度は!出てきたかと思えば、恥ずかしいじゃないの!」
そもそも自分は担任に会いたくなかったのに、強引に引っ張り出したのは母。自分の意思で出てきたわけじゃないのに、さも自分の意思で出てきたみたいに。自分は部屋に戻り、ドアを閉めようとしましたが、一瞬早く母の手が入って、ドアを開けっ放しにされました。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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