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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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体験談2018.2.28


■ みんなと一緒 ■

 その日は公立の学校は代休か何かで休みで、弟も家にいました。昼、母が提案してきました。
「散歩がてらお昼を近くに食べに行こう」
 長期休みは例外ですが、理由のある平日の休みであっても昼間に出かけることで周囲の視線を感じてしまい、自分はできるだけ昼間は出かけいないと決めていました。弟は逆らわずに支度を始めましたが、自分は支度をしませんでした。
「ほら、出かけるって言ってるでしょ?早く支度しなさい」
「いやだ、行かない」
 そう言ったらどう言われるかはわかっていましたが、行きたくないものは行きたくないのです。自分の気持ちを口にしました。
 もうひとつ、行きたくない理由がありました。このところやたらと、母は外に出ようと誘ってくるのです。「最近やたらと誘ってくるけど、これは何かあるに違いない」と、ウラを勘繰っていいました。実際、日程的に合うかどうかは定かではないのですが、例によってだいぶ後になってから母のノートを見たら、
「外に気が向くようになったことをF先生に話したら、積極的に外に出かけることを誘ってみては、と言われた。今度散歩にでも誘ってみよう」
と書いてありました。
 当時もウラを勘繰って警戒心を強くしていたので、ますます従うものか、と思いました。
「みんなで出かけるんだから、支度しなさいって言ってるでしょ」
 行きたくないのなら留守番だっていいじゃないか、と思いました。電話番ぐらいならするのに。それでも母は、みんなで出かけることにこだわり、行かないことを許してくれません。
「なんでみんなと同じことができないの!」
 挙句の果てに、母はこう言いました。
「ほんっとに協調性のない子!適応指導教室の先生もあきれるわけだよね」

 いつも「協調性のない子」が母の最後の切り札でした。さらに自分が知った人の名前を付け加えれば、威力倍増です。
 自分としては適応指導教室でみんなと一緒にやることはやっていたつもりでした。自分が参加している一方で、みんなと一緒にしなければいけないことでも参加しない子がいたことは事実ですが、自分は参加しなかったことってあったっけ?と思い返してみても、思い当たりません。適応指導教室では和を乱すようなことをした覚えはありません。
 協調性というのがみんなと同じようにすることだとしたら、適応指導教室での自分の姿のどこに協調性がない要素があるんだろうと思う一方、今の状態でまだ協調性がないと言われる状態なら、もっとみんなと同じようにしなきゃいけないのかとも思えて、これ以上どうすればいいんだろうと思いました。

 また、適応指導教室のスタッフは普段はにこにこしながら、中では自分のことをそんな目で見ていたんだと思うと、適応指導教室のスタッフに対しての信頼感が一気になくなりました(これについては単に母のハッタリであった可能性があり、本当に適応指導教室のスタッフがそう言っていたのかの真意は確かめていません)。
 これ以上みんなと同じようになんてどうすればできるのかわからなかったし、適応指導教室のスタッフに対しては信頼感をなくすしで、ショックが大きく、気がついたら部屋の入り口に立っていた母を押しのけて部屋のドアを勢いよく閉めていました。当然母は部屋のドアを強引に開けようとしてきましたが、今度ばかりは無理です。閉まったドアの内側に自分が座り、思いきりドアに体重をかけるようにしていたので、ストーブよりも容易には動きません。

 その後母と弟がどうしたかは覚えていませんが、悔しくて泣いているうちに、どうやら部屋の入り口でそのまま寝てしまったようでした。暗いままの部屋で目が覚めたら夕食後で、父が帰ってきているらしいことはわかりましたが、部屋のドアを閉めた状態にしたまま、寝たふりをして過ごしました。みんなが寝静まったあと、部屋に電話の子機をそっと持ち込み、思いきりB所のスタッフにグチをはきまくったことは、言うまでもありません。グチを一方的にはくだけですっきりし、翌朝からは何事もなかったようなふりをして家族と接することができたのは、幸いでした。
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体験談2018.2.21

■ 頼ってみてもいいかもしれない ■

 適応指導教室は課題をこなすことがよしとされる部分があり、この課題をこなすことに困難を感じていた自分は、次第に通う日数を減らすようになりました。その代わり月に1回程度の開催だったB所には毎回行っていました。こちらのほうが自分にとって楽しい場所でした。
 前にも書いたとおり、そこでは本当にくだらない話で盛り上がったり、他には迷惑のかからない程度のふざけたこともやりました。鍋パーティーのときに水炊きの鍋に差し入れのお菓子や甘納豆を入れた人がいて、罰ゲーム的に誰が食べるか?なんて言っていたら、誰も気づかずにおいしく食べていた、なんてこともありました。
 こんな小さく羽目を外すことでさえ、自分にとっては楽しいと思えました。家でやろうものなら、家族の和を乱したとしてどれだけの罵声で責められるかわかりません。ちょっとした冒険やはみ出しが許容される雰囲気が、自分にとっては心地よかったです。他、前述の繰り返しになりますが、夜更かしができること、親元から離れられること、どんな話題でも聞いてくれるスタッフ――、この場所が本当にありがたかったです。

 中学2年も終わるあるころ、「そろそろ勉強のことも考えなきゃな」と口にしてしまいました。自分としても深く考えていたつもりではありません。ただ、まわりが高校に行くのだから自分も行かなければいけないのだろうな、というぐらいにしか考えていませんでした。中学に行けないのだから高校に行けるわけがないと思いながらも、もし3年生になって勉強をがんばれば、まだ進学の可能性もあるかもしれないと、どこかで考えていました。
 何気なく言ったことなのに、たまたま一緒にしゃべっていたスタッフは、それを聞き逃しませんでした。恐らくスタッフから根掘り葉掘り聞かれたはずで、「尋ねられたら答えなきゃ」と思ったことも事実です。だけど、親に尋ねられるような威圧感はまったくなく、「言いたくない」という気持ちには、不思議となりませんでした。よくわからないと答えても、わからないことはわからないとして受け止めてくれました。家だったら、そうはいかなかったでしょう。「自分のことでしょ?そのぐらいわからないの?」と言われ、なんとしてでも答えを要求されたと思います。

 話す中で自分として気がついたことがありました。言葉にすることで気持ちを整理することができるというのを初めて感じたときかもしれません。

・自分としては勉強はしたい。だけど、その方法がよくわかっていない。
・普通の塾に行くのはいやだ。周りは普通に学校に行っている子ばかりだから。
・だから、1対1で教えてもらえる塾か家庭教師がいい。
・学校に行っていないという事情をわかってくれる人がいい。可能ならB所のスタッフ。

 適応指導教室もそうですが、B所でも、スタッフは参加者とのプライベートな付き合いはしない、というルールがありました。あくまでB所の中での関係を守る観点から、B所のスタッフが家庭教師となるのは難しいけれど、誰か知り合いを探してみることはできる、と言われました(実際B所のスタッフには、家庭教師のアルバイトをしている人も多くいました)。
 結局B所のスタッフづての家庭教師は、相性がうまく合わなかったこともあって教えてもらうことはなかったのですが、それでも、B所のスタッフはこれまで接してきた人たちと何かがちがうなと思えました。
「この人たちになら、何かを相談してもいいかもしれない」

 初めて、自分の心を曝け出してもいいと思える人に出会えました。
 それからは、プライベートな付き合いはしないというルールがあったにもかかわらず、何か悩みごとができたなら、夜遅くにつかまるスタッフというスタッフに電話をかけて、相談していました。まだ携帯電話のない時代、みんなが寝静まったころを見計らって電話の子機を部屋に持ち込み、ドアを閉めて、長いときは1時間ぐらい付き合ってもらったでしょうか。深夜だから、親にドアを開けておくよう強要されることもありません。内容は主に親へのグチ。延々とグチを言っていたことは覚えているのですが、振り返ってみて、相手から何かアドバイスをもらったっけ? と思い返してみても、何も思い当たりません。

 あのときがなかったら、自分は今でも他人に対して心を開かず、人を信じられないままだったと思います。
体験談2018.2.14

■ 学校がすべてなのだろうか ■

 自分が中学生だったときに起こったこととして、このことに触れないわけにはいきません。自分と同じ中学生がいじめを苦にして自殺した、というニュースがありました。その後の会見の様子などは当時のワイドショーなどでも報じられていたので、目にしていました。会見の内容がどうとか学校がウソをついていたとか、そういうことは自分にとってはどうでもいいことで、自分が思ったのは、本当に学校に通う意味があるのか?ということでした。

 学校で何を学べるか?と言われたときに、教科の内容について学ぶことができると言われたら、自分はこれを否定するつもりはありません。教科の内容を効率よく学ぶのだったら、学校という手段を選ぶのがいちばんだとは、今でも思っています。
 他には何が学べるのか?と言われたときには、自分には疑問が浮かびます。もちろん、勉強よりも部活をしに行っていたという人もいるでしょう。自分はそれを否定するつもりもありません。打ち込めるものがあるのは何よりと思います。ただ自分には、学校の中にこれといった打ち込めるものを見出せなかった。見出すことなく、見出す方法を絶ってしまった。それならもう一度見出しに行かなければという思いにとらわれていたことも事実です。
 でも学校の中で、自分自身が傷つけられるようなことが起こっていることも、また事実です。自分ひとりが悪いように扱われたときも、親を含む誰もが自分が傷ついていることをわかってくれませんでした。自分としても自分が傷ついているんだと気づけなかったぐらいです。傷ついたり自分にとって不都合なことを乗り越えてこそ人は強くなれるんだ、とも言うかもしれませんが、強くなりたくても、自分はなれませんでした。
 学校がその人にとって危険な場所なら、それを避けるのは悪いことなのかと思いました。ニュースを聞いているうちに自殺した中学生に対して、どうして命の危険を感じるようないじめを受けていたのに、それでも学校に行き続けたんだろうと思いました。
 でも自分自身にも思い当たることがありました。学校を一度休んだなら、またそれがいじめやからかいのネタになることがあるのです。

 誰かに相談できなかったのかという疑問に対しても、すぐに自分なりに答えが出ました。相談できるまでに心を許せる人なんていなかったのでしょう。自分も今まさしくそのような感じです。自分としては真剣に相談しているつもりなのに、返ってくる答えは、そんな問題はたいしたことじゃない、と軽くあしらわれている感じで、何度も繰り返されるうちに「どうせ相談したって無駄だ」という気持ちになっていくのです。いくら相談した相手が「なんで相談してくれなかったの!」と言っても、こちらとしては「じゃあ何で真剣に相談に乗ってくれなかったの!」という気持ちでした。
 いやな思いをした場所から身を引いている自分は、まだマシなのかもしれないと思いました。同時に、同じようにいやな思いをしている場所から逃げ続けている自分がもどかしくも感じました。前者は「これからも学校に行かないこと」で後者は「学校に行くこと」で手っ取り早く解決できると気づき、結局は思考の中心に学校がある、学校にとらわれている自分でした。
体験談2018.2.7

■ 学校に行けるようになるなら何でもする・2 ■

 行っていた適応指導教室に、他のスタッフとはちょっとちがうなという人が数人いました。
 後で知ったのですが、週に1度か2度だけ来る、非常勤のスタッフでした。当時は非常勤という言葉の意味を知らなく、この人たちのおかげで覚えた言葉だと言っても過言ではありません。
 このうち2人の人と仲良くなりました。1人は女の人で、病院に勤めていると言っていました。もう1人は男の人で大学の先生だと言っていて、特に後者の人と仲良くなりました。病院に勤めているとか大学の先生だとか言っても、2人ともそんな感じのしない、親戚ではないんだけど友達でもない、なんとも不思議な感じの人でした。2人とも学校の話題を出さずにいてくれたし、一緒に遊んだり他愛もないことにも付き合ってくれたりしたし、よかった思い出が残っています。
 この大学の先生から、ある場所に誘われました。このとき行っていた適応指導教室と区別するために、新しく誘われた場所をB所と書きます。
 B所は自分と同じように学校に行かない人たちの集まりで、スタッフは多くが大学生。今度キャンプがあるんだけど、参加しないか?とのことでした。仲良くしている人からの誘いとはいえ迷いましたが、もしこれで自分が何らか変われるのであれば参加したいと思い、親にも知らせました。参加する前に面談があるのは適応指導教室と同じでしたが、担当した人はスーツを着ているではなく、ジーンズにセーター姿の私服。初めての場所で緊張はしたけれど、何となく楽しそうだということが伝わってきました。
 現在学校に行っていない人だけでなく、かつて行っていなかった人もいて、周りはほとんどが年上だったのですが、まずは2泊3日親元を離れられるということが、どれだけ楽しかったか。家ではできないことを楽しむことができました。特に2日目から最終日にかけての夜更かし。プログラムを見てみても予定が緻密に組まれているわけではなくて隙間だらけ。最終日の朝も出発予定のお昼ごろまでに起きてくれればいいというルーズなもの。
 合宿はときどき、それ以外のときは月に1回集まっているとのこと。どこかに出かけることもあるけれど、集まるだけでのんびり何もせずにいることもある。それだけの場所なのに、これからもB所には参加したいなと思いました。

 初対面の人ばかりの中によく行けたなと、振り返ってみて思います。どうしてB所に参加し続けたいと思ったのかは、このときにはわかりませんでした。
体験談2018.1.31

■ 母方の親戚 ■

 母には、妙なこだわりがありました。「人に言われたことはかたくなに守る」。あまりにもそれが理不尽だと文句を言うくせに、いざその指示をしてきた人を目の前にすると、その文句をぶつけることなく、普段どおりのふりをしてすごすのです。後に親戚の葬儀の席で、その親戚からはかなり理不尽なことを言われていたと聞かされました。自分としては、いまさら親戚のことをそんなふうに言うのだと、少し悲しくなりました。
 その言われていた理不尽なことが、「自分も思うように実家に帰ることができなかったんだから、あなたも実家に帰ってはいけない」でした。
 夏休みには、母、自分、弟で母方の祖父母の家に遊びに行ったことはありますが、夏休み以外に帰省した覚えはないし、父が一緒に行った覚えはありません。
 本当かどうかはわかりませんが、さらに自分が学校に行かなくなってからは、こうも言われていたようです。
「自分の子どもが学校に行かないのよ? 子育てもうまくできない人が実家に帰るだなんて、そんな権利ないに決まっているでしょ」
 こういった理不尽な理由をつけられて、様々な制約をつけられていたようでした。そして母は、それをかたくなに守っていたのです。かたくなに守っていたと言うよりは、「お前はダメなやつだ」と否定され、どうにも太刀打ちできなかったのかもしれません。

 このような状態でしたので、母方の親戚とはたまにしか会えませんでした。ただ、この「たまにしか会えない距離感」が、救いだったのも事実です。
 祖父母が遠方に住む親戚のところに泊まりがけで出かけるあいだに、母方の祖父が立ち寄ったことがありました。学校のある平日のことでした。ですが、自分は学校には行っていません。
「ヒロね、学校に行っていなくて。その代わりの場所に行っていて――」
と母が打ち明けたとき、母方の祖父からかえってきた反応は、
「そうなのか」
 このたったひとことだったそうです。
 その後遊びに来たときも、祖父は自分に、
「ま、じいちゃんも、大人になってから高校に行ったぐらいだしな。昼間働いて、そのあと学校に行った」
「そうなの?」
「じいちゃんたちのときは、戦争中でまともに勉強できんかったからな。だから大人になって働きながら、夜になって高校に行くって人も案外いた。ヒロも、今は勉強できなくても、そのうちちゃんと勉強できるようになるぞ」
 ちょっと筋がそれたような気はしましたが、母が打ち明けたときの第一声、「そうなのか」は、自分には、「へえ、それで? だからどうした?」と言われたように感じられました。学校に行っていないことで「そりゃ大変だ!」と大騒ぎされず、学校に行っていようがいなかろうが、ヒロはヒロだろ? と言ってもらえた気がして。

 二人とも成人してからですが、母方の祖父のところには、母なしで、弟と一緒に遊びに行ったことがあります。弟と二人でも案外何とかなるとわかってから、何度も行かせてもらいました。そのぐらい、自分たちきょうだいにとって、母方の祖父との距離感はちょうどいいものだったんだと思います。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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