フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
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■ 放っておいてくれ・2 ■
部屋に戻ってまずしたことは、ドアを閉めて、年中出したままのストーブを、ドアの内側に置いたことでした。とりあえず一人になりたかったのです。周囲の何もかも、雑音も人も、すべて遮断したかったのです。
ところが、時間が経てば経つほど、ものすごく悲しくなってくるのです。責められる怖さと重なって、先ほどの親からの尋問する声が頭の中に響きます。
こうするしかなかったってちゃんと理由を言ったのに、どうしてわかってくれないんだよ!
みんなに迷惑をかけてるってことぐらいわかってるよ!わかってることを掘り返さなくたっていいじゃないか!
悔しく、わかってもらえなくて悲しく、傷をほじくり返された挙句に一方的に責められたのとで、涙が止まりません。部屋の真ん中で丸くなって、30分は泣いたでしょうか。
両親は、饅頭やおやきの表面しか見ていない。ふと、こんな絵が頭に浮かびました。表面から見たら丸い形状の食べ物、でも中身は実際に割ったり食べてみないとわからない。つぶあん、こしあん、野沢菜、もしかして激辛わさび、からしなんてこともあって、好きとはいっても食べられる状態じゃないかもしれない。
表面だけ見て、「これは焦げているから」「これは形が悪いから」と判断して、それがすべてだと思っているのではないか。実際の商品として売るものなら焦げていたり形が悪いのは問題かもしれませんが、それでも味に変わりはなくおいしくいただけるものもあります。でも自分としては、目に見える形などだけじゃなく、見えない中身の部分も見てほしいのです。
今両親は、「家出という他人にとっては迷惑でしかない行為をした」というフィルタで自分を見て、だから家出をしたことや、迷惑をかけたということに対して強く追及しようとしている。でも本当は、家出をした理由が何かあるのではないかということに気づいてほしくて、でもその理由は言いたくない気持ちも大事にしてほしいんだ、と。
昼を回っていたか、それとも夕方になってかは忘れましたが、祖父母が帰ってきました。玄関の開く音、閉まる音、両親と少し会話のやりとりが聞こえたのみで、すぐに自分の部屋に来ました。当時自分の部屋は、玄関からいちばん近いところにありました。
ノックもなくドアが動きました。ですが、何かに当たったとわかったのか、一気に開くことなく、少しずつストーブが押される形で開きました。
「どかしなさい!」
母に無理やりストーブを動かされ、ドア全開。実はこのやりとりは、今日のうちで何度も繰り返されていました。その理由は後述するとして、母は入り口付近に立ったまま、祖母が入ってきました。
「お父さんに迷惑をかけたらダメじゃないの。どうして家出なんかしたの」
両親の追及から逃れられたと思ったら、今度は祖母の追及が始まりました。自分は部屋の真ん中で丸くなったまま。
「ちゃんと起きなさい!それが人の話を聞く態度?」
母が無理やり体を起こそうとしましたが、
「いいわよ、大丈夫」
と、祖母は母を制止し、そのまま母は部屋を出ていきました。
祖母は丸くなったままの自分に近寄ると、肩の辺りをなでながら、わざとらしい優しさを含んだような声で話しかけてきました。
「家出をしたことで、みんなに迷惑をかけたのよ?」
おばあちゃんも結局お父さんたちの味方なんだと思ったのですが、何かちがう道が見出せるかも、と思ったのでしょう。両親に言い出すよりはすんなりと言うことができました。
「自分なんていないほうがいい」
「あら」
しばらくなでる手を動かしながら、祖母は思いついたように言いました。
「それなら、おばちゃんと暮らしたらいいじゃない」
今思うと、なんでいきなりそこに飛躍するのだろうと思うのですが、祖母の話に乗ってもいいんじゃないかと思いました。自分以外の自分を演じることに疲れ、周囲との比較に耐えられなくて、どうしたらよいかと思っている今、どういう手段を使ってでも学校に行けるようになればそれでよかったのです。親戚の家から学校に通えば、当然誰も自分の成績なんてわからないし、学校で問題を起こしたり、家出をして実は死ぬことも考えていた問題児だということも知られずにすむ。何か気持ち的に変われるのではと考えたら、まだ幾分楽だと思えました。
ところが部屋のドアが開いていたので、この話は両親にも丸聞こえでした。
「何を言ってるの?うちを出ていくことは許さないよ」
自分にとっての希望の道を閉ざされてしまい、自分は再び部屋のドアを閉め、内側にストーブを置きました。それでも構わず、母がノックもせずにドアを強引に開けました。
「こんな物まで置いてドアを開けにくくするんじゃないの。ドアを常に開けておくって約束したっでしょ!」
と、ストーブをドアを開け放したまま押さえる役割として使い、そのまま行こうとしました。それでもドアを閉めようとすると、
「言ったでしょ!開けておきなさいって。お父さんと決めたんだから」
部屋のドアを開けておくという約束なんてした覚えはありません。そしてここは自分の部屋、なのに自分には何も決定権がないのです。自分が唯一くつろげるはずの場所。自分の城。それがドアを開放状態ということは、常に誰かに見られる恐れがあるということ。常に緊張に晒される状態です。
では弟はどうだったかと言いますと、弟については開け放しておくというのは適用外でした。自分の部屋はというと、玄関を通っていちばん最初の部屋だし、トイレの向かい側でもありましたから、誰かが必ず通る場所だったのです。
あとになってみて思うと、自分は物理的にではありますが、ひきこもりたかったのです。死にたくても死にきれなくて、それならばと、自分以外の一切合財を遮断して、とにかく一人になりたかった。親の顔も、学校に行っている弟の顔も見たくなかったのです。
ところが、親がひきこもることを許してくれない。「何をしているかを常に監視できるようにドアを開け放しておく」というルールを、自分の意見なしに決め、それに刃向かってドアを閉めておいても、今度は弟の部屋から回りこみ、ベランダ伝いに窓をノックされる始末でした。そしてまたドアを開け放しておくことを強要され、一旦開けるけれど閉める、の繰り返し。
「中の様子がよくわかるから。あんたが問題を起こさないかどうか、常に監視できるから、ドアを開けておきなさい」
母が笑顔でこう言ったことを覚えています。直接言葉として言われたわけではありませんが、「お前が問題を起こさなければ(部屋のドアを開けておくという)こんな事態にはならずにすんだのにね」と言われているような気がして、ますます自分を自分で否定の方向に導いていったように覚えています。
家出したことで祖父母も巻きこみ、両親の監視の目が強まり、家にはいたくない。でも学校にも行きたくない。学校でもすでに問題を起こしているし、家出をしたことも担任に伝わっているか、いずれ伝わるでしょう。さらなる問題を起こし、自分の評価はさらに下がっていることが考えられました。
自分にはどこにも助けてもらえそうな場所などないのです。それならもう一度死ぬことを考えたほうが楽かもしれないと思うのですが、そこまでの勇気がありません。周りを巻き込んだくせにその責任も取れないし死ぬこともできないし、どうすることもできませんでした。
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■ 放っておいてくれ・1 ■
途中で、父に見つかってしまいました。
帰ると早速、問い詰めが待っていました。弟はちょうど入れちがいぐらいで小学校に行ったあとでした。
「なんで家出なんかしたのか、言いなさい」
黙っていました。しかしこのまま黙秘させてくれそうにもありません。
「言いなさいって言っているでしょ」
自分としては、机の上にメモを残していたはずです。「こうするしかなかった」と。
「――こうするしか、なかった」
目を合わせるのが怖くて、下を向いて言ったように覚えています。
「ちゃんとこっちを見ろ!人の顔も見れんのか!」
父に怒鳴られたって、見たくても見れません。
「『こうするしかなかった』じゃないでしょ!それじゃ理由がわからない」
そう母に言われたって、こっちだって何がなんだかよくわかっていないのです。死ぬことが頭をよぎったとは言い出せませんでした。他の理由も思い当たらなかったし、思い当たったところでつくったウソになる。そのウソを、自分の地位や名誉を守るために使ったとしても、どうせ自分の意見は親の都合のいいように解釈され、捻じ曲げられるんじゃないかという不安。そして結局、自分が悪かったことになる。
自分として悪かったとわかってはいるのに、改めてこうして「自分が悪かった」と強制的に認めさせられることで、さらに自分を追い詰める気持ちが膨らんだようにも思います。誰かが自分のことをわかってくれるんじゃないかという淡い期待が、家に連れ戻されたことで、この時点では消えていました。
そのとき電話が鳴りました。親のどちらかが離れるわけだし、追及の怒声は電話越しに聞こえてしまうだろうということから、ここで一旦止まりました。つかの間の安心でした。
母が出て、すぐ父にかわりました。父の話し方からして、数日前から出かけていて不在だった祖父母だとわかりました(父は、祖父母と話すときには、明らかに口調が変わるのです)。
父が受話器を置いて席に戻ると、尋問が再開されました。
「今電話で、おばあちゃんが帰ってくるって言っている」
「帰ってくるの明日じゃなかった?」
さすがに母もびっくりした様子ではありました。父はそれに取り合わず、
「それも、本当は今日も夜まで用事が入っているけど、それを途中までにして帰ってくるって言っている。――お前は、これがどういうことかわかっているのか?」
その前に、祖母に伝わっていたことに驚きました。自分が家出をしたのは今朝。連れ戻されてから今まで、そんなに時間は経っていないのに(あとでわかったことですが、自分がいないとわかってすぐに、祖父母が宿泊していた親戚の家に連絡をしていたようです)。
自分として何も言えず、黙っていました。黙ってはいたけれど、両親が反省の言葉を言わせたいことは気づいていました。
「わかってるか、って聞いてるでしょ?お父さんだって今日、あんたのために会社休んで」
お前のしたことは、周りのみんなを巻き込んで迷惑をかけているんだぞ?それをわかっているのか?と言いたかったのでしょう。自分としても迷惑をかけたということはわかっています。それでも今、答えることができないのです。自分として他人に迷惑をかけるとわかっていても、それでも、まずは家を出ることしか考えられなかったのです。繰り返しになりますが、こうするしかなかったのです。ですが、自分なりに出した唯一の答えはすでに親に否定されてしまっているため、同じことを繰り返せません。
どのぐらい尋問が続いたかは時計を見ていないので覚えていませんが、やっと解放されました。解放されたというより、これ以上何も言わない自分に対して、親もあきらめた様子でした。
■ 自分が悪いことはわかっているけれど ■
ある日の朝、何も持たずに家を出ました。とりあえず外に出て、どこかに行こう。どこか高いビルがいいな。もし高いところから飛び降りたら、飛んでいる間は楽しいかもしれない。下に落ちた瞬間は痛いかもしれないけど、そんなのきっとすぐにわかんなくなるだろうな。
そんなことを考えながら、歩いていたように思います。
今自分に起こっていることは、すべて自分が努力すれば解消することじゃないか、もっとがんばればいいだけじゃないか、と思うと、今の自分はただ目の前の困難から逃げているだけ、自分はただの弱虫だ、と思えてきました。
でも、これ以上どうしたらいいの?何かいい方法があるの?教えてよと自問自答すると、返ってくるのはいつも、「そんなこと言ってるぐらいなら努力すりゃいいじゃん」。その努力がこれ以上無理なのに、自分で出す答えも「努力」なのです。
逃げることは弱いこと、悪いことだと思っても、もうどうすることもできませんでした。
後で振り返ってみて、ここでなぜ死を選びきれなかったんだろうと考えることがあります。
ものすごく単純な理由なのですが、自分なんていないほうがいいと思うくせに、家族を悲しませたくなかったのです。悲しませたくなかったけど今の状況からは逃れたい。その結果、ただひたすらふらふらと、どこかを歩くだけになっていました。家族は悲しむかもしれないけれど、どこかで生きているという希望は残るから、と。
まだどこかで何とかなるかもしれないという希望を、家族(特に母)に対して抱いていたからこそ、死を選びきれなかったのではないかと、今では思います。
■ いじめも続いていた ■
実はいじめもあのまま続いていて、今度は無理に明るく振舞ったがために、相手に退かれ、その明るさが、おかしいと認定される状態となっていました。しかし連休明けの件があるため、クラスメイトも自分とそれなりに付き合っている雰囲気を出していましたし、自分もこれ以上問題を起こすわけにはいかないと、溶け込んでいるふりをしていたためか、いじめが続いていたことは、どうやら担任は気づいていないようでした。ずっと軽微なままで推移していたのも、わかりにくかった理由にあると思います。
学校で本当の自分を出すことができず、苦労していました。しゃべらないでいればいじめられる、ではその逆にすれば解決かというと、またいじめられる。自分として両極端な二択しかないことに意見を言われるのは承知で言いますが、どっちにしてもいじめられるのなら、自分はどうすればいいのだろうと、わけがわからなくなってきました。素の自分でいられないことがつらくて、常に誰か別の人間を生きているような、何かを演じているような気持ちでした。
学校でも何かを演じ、家でも「よい子」を演じなければいけない。本当の自分はいったいどこに行ってしまったのか。いや、本当の自分でいてはいけないんだ。なら、やっぱり自分はいないほうがいいんじゃないかという結論になっていました。
■ どうせ自分なんて ■
学校を休んだ初日は途中までは行ったんですが、途中で足が動かなくなり、すぐに家に引き返しました。家に引き返すことを決めると、不思議なことに自然と足は動くのです。
当然母に責められます。担任にも、すぐに連絡がいきました。
「もうすぐ実力テストがあるから、それは受けると約束してくれる?」
電話越しに話した担任との約束を守りましたが、解答用紙に空白があることが自分として許せず、感触として1学期の期末テストよりも悪いなとわかりました。
このままじゃ高校に行けない。高校に行けないのだから大学にも行けない。
どうして高校にこだわっていたのかと言うと、大学に行きたかったからです。ではどうして大学に行きたいとこだわっていたのかと言うと、その当時あこがれていた職に就く夢をかなえるためには、大学に行ってそれ相応の試験に合格しないとなれなかったからです。
自分が大学に行けなくなるかもしれない恐れよりも前に、母の顔が浮かんできました。また成績が悪かったとわかった母からは、何を言われるか想像がついていました。いい成績を取らなければどうなるか、責められると。
あとでハッタリだとわかったときには、よくもこんなウソをついてくれたなと思ったものですが、では、母がなぜこのハッタリを堂々と言えたかと言いますと、「情報が少なかったこと」と、もうひとつ「自らが通ってきた道」だったからです。母が言うのは自分が実際に受験したときの方法・地域の状況でした。祖父母に対して「おじいちゃんやおばあちゃんの世代とは、またちがうから」と言っていたのと同じことを、自分自身もしていたのです。新しい情報がない中で優先される事項が、母自らの経験のみになってしまっていたのです。
ところが当時の自分は、へえ、そういうふうになっているのか、と思うしかありませんでした。あまりに母が自信満々に理由まで添えて言い、自分としても否定し覆せる要素を持ちえていなかったので、母が言うことを信じるしかなかったのです。将来の夢で考えた場合でも、商業、工業などの高校ではなく普通高校に通いたい。なぜなら自分が就きたい職業は、商業や工業に詳しければなれるものではなく、いわゆる頭のいい人がなるものだから。そのためには、それなりの水準にある高校に通わないと大学には行けない。それなりの水準にある高校に行くためには、トップの成績を取らなければいけない――。
自分の夢が崩れそうな不安と同時に、このままでは自分は母に見放されると思いました。どれだけ自分なりにがんばっても、
「今までがんばったって言うのなら、次はその倍、さらに倍とがんばりなさい。他の子はもっとがんばっているんだよ?」
の言葉で一掃されることが予想され、自分なりの努力以上の努力をしなければいけないことに、疲れを感じました。どれだけ勉強ができたとしても、いつまでたっても母からほめてもらえる、認めてもらえることはないんじゃないかと感じ始め、いつまでも批判の目に晒され息苦しくて仕方のない家は、自分にとっていやな場所でしかありませんでした。
同時に、親の理想にこたえられない自分、思うとおりに結果を出せない自分、将来が見通せない自分――。こんな自分なんか、いないほうがマシなのではないかと思い始めました。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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