20歳をこえ、法律的にはひとりの大人、成人であっても、物事の判断基準は自分ではなく、すべて「親」。「親がいいと言った場所で」アルバイトをし、「親が勧めるから」父が勤める会社の系列で働き、自分なりにそれなりに片づけても、仕上げるのは親。「親の思うとおり」の自分を要求され、気がつけば、自分で判断できることが少なくなっていました。一緒に買い物に出て服を買ってあげると言われたときも、自分が思うものと母が選んだものとが同じ値段であれば、母が選ぶものに決めていたぐらいです。その結果、試着もせずに買って着てみて似合わない、ダサいとなっても、それを着こなせない自分が悪いと、自分を責めていました。
ある日、自分は体調を崩しました。その日は出かける予定があったのですが、少し無理をすれば出かけられるぐらいではありました。しかしその先で体調をさらに悪化させるかもしれないので、出かけるべきかどうしようか、出かけなくても他の日に振りかえることはできるし、でも出かけておいたほうが再度日程調整をする必要がないし、と考えていました。
「どうしたらいいと思う?」
母に相談しました。すると、返ってきたのは、
「どうしたらいいって、そんなのも自分で決められないの? いい加減にしなさいよ、あんた今いくつ? もうそのぐらい自分で決められる年でしょ?」
今まで散々自分のことを「こっちがいいから」と決めておいて、いざ困って相談すると、この返事。
こう書くと、もしかして自分の親は、いわゆる「毒親」だったのかもしれません。大学を卒業後、アルバイトのみでいわゆる正社員ではなかった自分に、親は
「それだけ時間があるなら、少しは家のことをしたらどうなの?」
「車の免許ぐらい、取ったら?」
「その年にもなって銀行にも行けないんじゃ、将来どうするの」
といった言葉を、容赦なく浴びせてきました。それでいていざ自分でやろうとすると、
「それはちがうの、こうするの!」
と、野菜を乱切りしようとしていたところを薄切りにするよう言われたり、
「車の免許取ったって、あんたじゃ事故を起こしかねないから、どうせ乗らないでしょ?」
などの否定的な言葉を言われたり、
「銀行、ついでに行くけどどうする?」
と尋ねられて、「自分でやってみる」とでも言おうものなら、
「どうせできないくせに」
と返され。
いや、やる機会がないなら、いつまでもできないままなのは当然じゃない、と、何度思ったか、数えきれません。そのうち、自分が思うようにやらせてもらえないストレスのほうが上回り、家のことはしたい気持ちがありながらも、結局自分が思うようにはさせてもらえないんじゃ意味がないと思うと、結局しないままでした。
自分は、部屋の片付けや掃除が苦手です。きれい好きの方からしたら納得ができないかもしれませんが、物が少なくすっきりしているよりも、何となく雑然と散らかっているのが落ち着くんです。どうにも我慢できない!となったときに、1日、2日かけて片付けることが、年に何度かぐらい。日ごろからちゃんと元の場所に戻すなど簡単な片づけを繰り返していればそう散らかることはないはずなのに、きれいな状態がいつまでもつか、と賭け事の対象になってもおかしくないぐらい、足の踏み場がなくなるぐらいにまで、すぐ散らかってしまいます。
ある日外出先から帰ってくると、何だか部屋がすっきりしていました。その前日、自分なりに片付けたので、すっきりしていてもおかしくはないのですが、自分がやったよりもさらにすっきりしている気がしました。
犯人はすぐにわかりました。
前日にやった片づけも、母から何度も何度も言われた挙句にやっと遂行したものでした。それで何とか片づけはしたので、言うことは守った気持ちになっていました。それでも手を入れてくるとしたら、散々片づけろと言っていた母以外に思い当たりませんでした。日中に在宅だったかどうかも、決定づける要素のひとつで、このとき弟は専門学校に通っており、土日や休日でない限りは不在がちでした。父は日中は仕事に出ています。
まず、自分の部屋に勝手に立ち入られたことに言葉にできないショックを受けました。自分のいないあいだにあちこち探りまわられたのではないかと不安が襲ってきました(自分も後に同じようなことを母に対してはしているので、文句は言えないのですが)。あわてて机の引き出しを開けてみましたが、引き出しの中は大丈夫。ですが、机の上のものは動かした形跡がありました。
床に、中学生のころに着ていたような服がゴミ袋に入って2袋分。まだ最近まで着ていたような服も含まれています。クローゼットの中を覗かれたことになります。
クローゼットなどは、普通隠しておきたいものなどを入れていたりもします(一応言っておくと、自分の場合隠しておきたいものは特になかったので、その意味では勝手に開けられても「雑然としているよ」ぐらいだったのですが)。そのような秘密性の強い場所にも勝手に立ち入られたことで、さらにショックでした。
リビングに行くと、母がいました。
「部屋――」
と口を開くと、
「ああ、片づけておいたから。きれいになったでしょ?あんたのためを思ってやっておいたから」
との言葉が返ってきて、さらに悲しくなりました。
まだ「してあげたんだから、せめてお礼ぐらいは言ってほしい」と言わなかった分だけマシですが、「あんたのためを思って」が自分を傷つける要素になっているとは、母は気づいていなかったでしょう。当の自分は、自分なりには片づけたのに、自分としては親の言いつけを守ったのに、(それなりとはいえ)片づけたという事実や努力を否定され、言いつけを守れなかったことに対する自己否定を突きつけられたような気持ちになり、自分のいいようにではなく、親のいいようにされたことに、むなしさを感じました。
親の思うとおりでないと、自分は生きていられないんだと、強く感じた瞬間です。親から逃れないと自分自身でいられなくなると思うのと同時に、親の言いつけを守れなかった自分を責めました。
この時点で大学4年生、20歳を越えています。それでも「親の言うことを聞かなければいけない」と思っていたのです。20歳を越えてもですよ?法律上は成人、ひとりの大人ですよ?この部分より前に書いたように、少しは反抗することも覚えてはいたけれど、それでもまだ「親の言うこと」のほうが絶大だったのです。
あらゆることを、親が決めていました。大学の間は、友人たちと夕飯を食べて帰ってきたこともありません。大学までが遠かったので、というのもありますが、
「今日は友達と食べてくるから」
と言おうものなら、
「何を言ってるの。せっかく夕飯の献立考えたんだから、帰ってきなさい」
と返ってきて、それを律儀に守っていたのです。友人同士での旅行や、友達の家に泊めてもらうことも、したことがありません。大学卒業時の卒業旅行にも、自分で費用をまかなうことができず、また、「子どもだけで旅行なんて、何かあったらどうするの」と親からの反対にもあい、行けませんでした(繰り返しになりますが、子どもと言っても、20歳越えていますが――)。
さすがに友人たちの前で「親が言うから帰る」とは言えず、言い訳を適当にごまかしていましたが、うちはうち、よそはよそと割り切ろうとしても、次第に自分の家はどこかおかしいのではないかと感じるようになりました。
大学も3年後期になると、他の友人たちは早くも就職活動を始めだしました。
「ガイダンスのときいなかったけど、どうした?」
と尋ねられて、資格でやっていこうと思っていた自分だったので、就職は考えていなかったのです。従って一番最初のガイダンスには出ず、途中のガイダンスも授業と重なったりして出ませんでした。別に強制のものでもなかったので、よかったのですが。
後期のテストが終わると、友人たちは一斉にリクルートスーツ姿になり、今日は企業をいくつ訪問しただの、今のところどこも手ごたえがないだの、それまでとは一変した状況に自分としても少し混乱し、資格でやっていこうと思いながらも、でも万が一のことも考えて、周りに流されるように、就職活動も併行して始めました。
「ヒロは企業にはどのぐらい行っているんだ?」
父に毎晩のように尋ねられました。
「中小企業中心にだけど、今のところ訪問予定も含めて○社ぐらい」
「中小企業?」
父がバカにしたように言いました。
「就職するなら大手がいいに決まっているだろ。お前はそんなに小さくまとまりたいのか?」
大手企業も決していやだというわけではなかったのですが、働くなら中小企業、ことさら個人事務所や小さな家族経営的なところがいいなと考えていました。
あるいは学童保育や何らかの子どもとかかわる施設がいいなと思っていたのですが、子どもに関する学部に通っているわけでもないし、資格を持っているわけでもないし、父が望む大手だと、どう考えたって塾などへの就職を考えていると勘違いされそうで、そうじゃないんだと説明すると、またいろいろとこじれてしまいそうで、なかなか言い出せませんでした。
自分で幅を狭めていたのだろうな、と今では思うのですが、当時はこのように、何の目標などもなく流されているだけだったので、思うように就職活動は進みませんでした。
「そうやって呑気にテレビを見ているということは、就職は決まったんだろうな?」
父に指摘されて答えずにいると、暴力を振るわれることもありました。髪をつかまれ、執拗に床に頭を打ちつけられました。涙が流れてくるのですが、痛さというよりも自分が就職もできなくて情けないという思いからでした。しかし、こうして暴力を振られ続けているあいだに、少しずつ気もちがかわってきました。
「助けてほしい。誰か、この暴力を止めてよ、痛いよ!」
暴力を振られ続けている間、母も、弟も、ただ見て見ぬふりをするだけ。誰も助けてなどくれません。今でも、父の暴力を思い出し、体が震えることがあるぐらいです。そして誰も助けてくれない、悲しさ、むなしさ。
でも翌日には、「こんなところがあるぞ?」と、仕事の提案をしてくる父なのです。けれどそれは、すべて自分の会社の系列。肩書きや学歴、規模の大小、メンツが大切な父です、断ったら、「俺のメンツをつぶすつももりか?」
と、また暴力をふるってくるのではと予想がつきました。
仕方なく、系列の一つに、パートという形で就職することにしました。
親の言いなり。自分でも気がついていました。20歳をこえ、大学を卒業して実家に戻る子もいるけれど、そのまま親元を離れて就職する子もいる。なのに自分は、いつまでも親の支配を受け続ける。
一刻も早く、この支配から逃れたい。でも逃れることができない。逃れなければ、いつまでも自分は自分として生きられなくなる。親の思う自分にさせられる――。
■ 本当に自分で決められなかったんです! ■
ここまで書いて、本当に何も自分で決められなかったのか? と思われる方もいるかもしれませんが、本当です。
それを裏付けることができるかわかりませんが、大学在学中、ある資格を取りたくて、そのた めに勉強会が設けられていました。先輩から直接教わることができるし、学生が勝手に集まってやっている勉強会だけど、学年関係なく混じって勉強しあえるということで楽しみにしているものがありました。
その勉強会は、1日の授業がひととおり終わってから設定されていました。大学は5時間目まであると、夕方の6時ぐらいにはなるので、それから。終わると夜の8時や9時という時間になるとの話でした。もともとこの勉強会とはちょっとそれた科目を中心に履修していましたが、こちらの勉強会もおもしろそうだということで顔を出すようになっていました。
2年生のあいだ、1年間参加していたでしょうか。卒業までずっと参加したかったのですが、ある日、父から言われたひとことで、勉強会への参加をやめることにしました。
「そういえば、○○の資格は取ったのか?」
○○とは、ある有名な資格でした。もともとやりたかったことにはとても関係のある資格です。手がぴたりと止まりました。それを父が見たかどうかは知りませんが、
「○○の資格を取るために大学行ってんだろ? 取らずに卒業する訳がないよな?」
その資格を取得するため「だけ」に大学に行きたいと思ったわけではなく、そもそも大学だって本音を言うなら「周りの期待にこたえなきゃいけないんだ」と思っていたからで、もう少しじっくり考えてから行ったってよかったなと、今では後悔しているぐらいです。ですが父から、
「お前は大学に遊びに行っているのか? こんなに遅く帰ってきて。勉強会? それが何の関係があるんだ」
と言われた瞬間、資格とはあまり関連のない勉強会は、ただ遊んでいるだけだ、と言われたような気がしたのです。
たったこの1回のできごとで、勉強会への参加をとりやめることにしたのです。
自分で自分の考えがあるなら、それを言えばいいじゃないか。とおっしゃる方もいると思います。でも言えなかったのです。
なぜなら。何度か書いている気がしますが、相談しても、親はまず否定から入りました。
「そんなのはムリに決まっている」
何か作品に対しても、
「もっとこうすればいいんだ」
と、最初は必ずケチをつけられる。
賛同するにしろ否定するにしろ、一度、
「え? アルバイトしたい?」
とワンクッションあるだけでも気持ちの部分ではちがう気がするぐらい、まず第一声が、間髪入れずの否定だったのです。作品についても、自分の思うとおりでやめると、必ずもっとこうしたらいいとケチをつけられ、(作品が絵だとして)筆を勝手に手にとって自分の作品を直しだすぐらいです。
こうして、どうせ自分は何を言ったって受け入れてもらえないんだという気もちは、どんどん強く深くなっていき、重ねて「これを言ったらまた否定される」という気もちもあって、とにかく否定されないためには、自分が傷つかないためには、自分で決めないで人に決めてもらうのがいいんだと、いつの間にか学習していました。
2月の頭になると、母が尋ねてきました。
「またアルバイトするんでしょ?」
大学は、学部や授業によっては1月から2月にかけてテストを実施したあとでも集中講義があったり、レポートを提出するよう言われるところもありましたが、自分は該当するものがありませんでした。したがって、まったくのフリーでした。
「アルバイト?」
たずね返すと、
「ほら、学童保育」
自分としてはあんなところではアルバイトをするつもりはありませんでした。
「え? しないよ」
と答えると、突然、
「しないって、誰がそんなこと決めたの」
と、母。
「夏にあれだけがんばったんだから、今度もするんでしょ?」
あんなにつらかった場所にもう一度戻るとか、考えたくもありませんでした。
「しないよ、あんなところでなんか」
8月末で雇用期間が終了したときに、特に両親には何も言いませんでした。学生ではなく主婦の人で、他の学童保育の常勤スタッフに空き枠があって滑り込んだ人ならいましたが、自分としては大学優先にしたかったので、期間満了につき、雇用終了となっていました。
それを、説明しなかった自分も悪いといえば悪いのですが、
「何で勝手にやめるの!」
と、アルバイトを親の許可なくやめたと勘違いされました。
それからしばらく、一方的に質問をされました。いつやめたのか、あんなにいい場所だったのに、どうしてやめたのか。やめた訳じゃない、と何度も言いかけては、次の質問にかき消されて、こちらの弁明の機会はまったくなし。
「行かないなんて、やめるのと一緒じゃないの」
昔、年賀状が集中する年末年始限定で郵便局でアルバイトをしたことがある、と言っていた母の発言とはとても思えませんでした(あれだって、期間限定雇用ですよね?)。
そのうち、
「何度も同じことを繰り返さない!」
「いいから、こっちが尋ねていることについて答えなさい!」
とまで言われる始末。どの口が言うんだよ、と思いました。
「何であんなにいいところをやめるわけ? 何の理由があって? あんなにいいところでも働けないんじゃ、他のどこに行ったって働けないから」
「あんなにいいところ」って誰が決めたんだと、怒りがこみ上げてきました。お母さんはあの場がどれだけひどい場所だったか、知りもしないくせに! 実際を見てもいない場所のことをひたすら「いい場所」としか言わないことと、そんな理由も知らずに自分だけが悪いかのように言い、問題を自分だけに閉じ込めようとする母に対して、さすがの自分も強く反論しました。
「『あんなにいいところ』って、何をもっていいところだって言えるの? 実際、いいところだっていうのを見たわけ? ――もういいよ! そっちがこっちの言い分を聞いてくれないんなら、こっちだって、アルバイトについては金輪際何も言わないから!」
と、言うだけ言って勝手に椅子から立ち上がり、部屋に入りました。部屋のドアは、もちろん強く音を立てて閉めました。
この話には、少々時があきますが、後日談があります。この件があってから数年後。たまたま母が知り合った方が、この学童保育に通っていたお子さんの保護者の方と知り合いだったそうです。
「そういえばあのときアルバイトしていた学童保育。評判悪かったんだってね~」
これを突然思い出したかのように言われたことで、また怒りがこみ上げてきました。
「今になって、何言ってんの? あのときはちっとも言い分聞いてくれなかったくせに、今になって同情するようなこと言われて、気を許すとでも思って?」
補足すると、数年の間、最初にアルバイトしていた学童保育については、本当に何も話しませんでした。もう、「どうせこの人たちは話したって聞いてくれないし」がかなりの奥底にまで染みついていて、話してもこちらが疲れるだけだから、と、話すこと自体諦めていました。
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