学生時代は、はっきり言うと勉強には苦労しましたが、本当にバカがつくぐらい真面目に授業に出席をしていたので、単位がギリギリだったものも含めて、何とか必修科目を再履修することなく卒業することができました。在学中は、念願かなってアルバイトができる! と思ったのですが、通学に時間がかかったのと、単位不足で卒業できなかったことを避けるために3年、4年でもそれなりに授業を入れていたため、平日に思うように時間が取れず、アルバイトができたのは、土日、あるいは長期休みの間だけ。
そして、
「飲食店? そんな来れる日数少ない子なんて、雇われないよ」
別の求人を見つけ、そこは土日のみの募集でも、
「そもそも物覚えが悪いんだから、できるわけないじゃない。要領よく、気の利く子じゃないと」
と、結局否定されて自信をなくし、応募せず。
今思えば応募するだけしてみればよかったなと思うのですが、高校時代もアルバイトをしたことがない自分にとっては、アルバイトをするというのは未知の世界。未知の世界について知るには先人の――、を、鵜呑みにしていました。
そのような状況でしたが、親が唯一、二つ返事で許してくれたアルバイトがありました。それが、長期休みの間の学童保育でした。
「こんなの、いいんじゃない? 常勤も一緒に募集してるの見ると、保育士とか幼稚園の先生とか学校の先生とか、何らか資格持ってる人じゃないと応募できないみたいだし。有資格者の人ばかりなんだから、ちゃんとしてるところだし」
と言われて応募して、まずは夏休み期間のみ採用されました。
しかし、その学童保育が、とんでもないところでした。毎日のように飛ぶ怒声、罵倒、冗談の範囲をこえた「冗談」。
怒声は、子ども同士のケンカの声ではなく、学童保育のスタッフが一方的に子どもを怒鳴りつける声。罵倒も同じ。子どもが一生懸命何か言おうとしているのに、
「うるさい! 本当に生意気なんだから!」
と罵倒する。迎えに来た保護者の方には、
「私、子ども嫌いなのよね~」
と笑って言う。こんな対応をするスタッフ全員が、子どもに関する資格を所持している人――。
自分は子どもの立場ではなかったのですが、何だかその場にいるのがとても苦しくなってきました。一方的に生意気だって決めつけられたり、自分の思うことも言わせてもらえないなんて、どういう気分だろう。「子どもが嫌いだ」なんて堂々と言うスタッフがいる場所に、保護者の方は子どもを預けたいと思うだろうか――。
何とか8月末までは乗り切りましたが、来年度の応募はしないでおこうと決めました。こんな場所、とてもじゃないけれど自分がおかしくなってしまいそうでした。ちょうどこのころ、大学の授業(教養科目)で「子どもの権利条約」という言葉を知ったことを思い出し、ノートを見返してみました。
「権利を盾にして我がままを許そうというものではなく、『子どもであっても、意見を聞いてもらえたり、意見を言ったり、生きていくうえで大切なことが保障されたもの』」
「18歳になっていない人を子どもとする」
と書いてあり、この条約には、日本も1994年に批准していること。
批准しているはずなのに、自分は大学の授業で聞くまで、何も知りませんでした。
それならと、業務が終わったあとの時間を狙って、常勤のスタッフに「子どもの権利条約について知っているか」と、尋ねてみました。
「は? 何それ?」
繰り返しになりますが、この場の常勤スタッフは、全員、子どもに関する何らかの資格をもった人たちです。全員がこのような反応でした。そのうえで、
「子どもであっても――、というものなんですって」
と、最初の「権利を」から「ではなく、」までをあえて省略してノートの内容を言うと、
「それって、子どもが我がままになるだけじゃない」
これも、全員が同じ反応。挙句の果てには、
「子どもに我がまま言わせないために、大人が押さえつけなきゃ。大人が強いんだってことを見せつけなきゃ」
とまで言うスタッフもいて、かなり大幅に譲って「我がままを助長するもの」というところまでは「そういう条約じゃないのに、ああ、やっぱりそんなふうにとらえられちゃうのか」と、ギリギリ許せても、子どもを押さえつけなきゃいけないと言い切る点については、唖然とするしかありませんでした。
本当にこの人たちは、子どもに関する資格をもった人たちなのでしょうか。資格だけで人を判断していたことに自分としては気づくことができましたが、この現状を知らない親は、こんな場所でも、「いいアルバイト先を見つけられて、よかったね」という認識でしかいませんでした。
■ 休むための場所・居場所 ■
通信制高校に在学していたので、「学校に行っていない」と問われたら「そうだ」と答えるし、かといって「学校に行っている」と問われても「そうだ」と答える、こんな曖昧な状況にあった自分は、義務教育修了後もずっとB所に通い続けていました。適応指導教室が義務教育年齢限定だったのに対し、B所は特に年齢の制限はありません。それでも早くて15歳の高校入学時、遅くても22歳ぐらいをメドに抜ける、という人が多く、別に高校生年齢の自分が所属していてもおかしいことはありませんでした。
このころは予定が重なることが多くて合宿に参加できることがほとんどなく、基本的に毎月の例会のみだったのですが、それでも毎月1回手づくりでつくられる会報誌が楽しみでしたし、それを自分がつくることもあって見てもらえるという楽しみもあったし、もちろんみんなに会えるということも、楽しみでした。
B所で他愛もないことをしていた、と書きましたが、いつもそうではありません。進路の話をしたときのように真面目に語り合うこともあるし、こちらが見ている限り、いつも難しそうな話をしているな、という印象の人もいました。スタッフにも参加者にもとにかくいろんな人がいて、本当におもしろい場所でした。
あるとき、堅苦しく難しい感じではなかったけれど、B所について話し合う機会がありました。
「そもそも、それぞれにとってB所ってどんな場所なの?」
あるスタッフが問いかけました。順番に問われるというより、自発的にランダムに答えていく感じでした。答えても答えなくてもいい場だったので、「何か言わなきゃ」というプレッシャーもなかったです。
「――休み場所」
自分はぽつりと、何気なく思ったことを口にしました。
実際自分は、高校で勧められた資格試験の日とB所の開催日が重なっていても、試験が終わり次第B所に行くということもあって、頭を酷使して疲れているはずなのに、それでも行きたいと思う気持ちがありました。
では、どうして疲れているはずなのに、それでも行きたい・来たいと思っているのだろうと考えていて、何気なく口をついて出た言葉でした。今思ってみると、自分を自分として受け入れてもらえたこと、学校に行けない自分をものすごく否定的に見ていたけれど、学校に行けないとか行っているとか関係なく付き合ってくれたこと。繰り返しになっているかもしれませんが、何の先入観やフィルタなどなしに人と人としての付き合いがそこにはあったんだと、それが自分にとっては何よりも居心地の良さを感じられる場所だったんだと思います。中学のときは家も学校も両方とも、高校に入ってからも家が引き続きいづらい場所だった自分にとっては、家でもない学校でもない第三者でありながら同じ境遇をもつ者が集まる場所が、何よりの息抜きの場所だったのです。
高校の卒業が決まったことと大学進学が決まったことで、自分としてはひとつの区切りかなと思って、親にも相談することなく、B所をやめることにしました。やめはしましたが、それで引き止められるわけでもありませんでした。
「自分で決めたことなら、応援する」
あとで個人的に会った元スタッフの人に言われた言葉が、忘れられません。親に何かを相談しても、言ったことに対して「考え方が甘い」「具体的じゃない。いつから、費用は、先方の約束はとったのか、○○市だといっても、その先どうやって行くんだ」などの否定を矢継ぎ早に浴びせられ、気がついたら親の思うとおりの意見にすりかえられていたり、アドバイスを求めたわけでもないのに逆にアドバイスされた経験ばかりだった自分にとっては、まっすぐに言ったことを受け止めてもらえることが、本当にありがたかったです。
今は当時の現役スタッフの人たちとまったく連絡を取らなくなってしまったので、B所がどうなったかを知る術がありません。自分が卒業するより前に卒業したスタッフの人とは、一部連絡を取り合っています。パソコンでB所のことを検索をしたらホームページなどを持っているのかもしれませんが、今がどうなっているのかを知ることが逆に怖くて、調べたいけれど調べたくないところです。
ひとつだけ言えることは、このB所がなかったら、自分自身は学校に行くことにとらわれ続けてどこまでも自分を追い詰めていたと思います。学校に行かなくて自分を追い詰めなかったわけではないけれど、極端なところまで行かなかったのは、B所のように自分を一人の人として扱ってくれた場所や人と出会えたことが大きいと思います。学校に行かない間は自己否定の気持ちがものすごく強く、高校のあいだも、中途半端な状態ではあることをやはり自己否定に使っていた時期もありました。もっと自己否定を重ねていたら、自分の存在そのものをなくしていたところでしょう。けれど、自身を自己否定の感情で完全に満たすことなくいられたのは、マイナスを埋めるだけのプラスもあったからで、そのプラスとなる部分が、B所だったような気がします。
それでも自己否定の感情を完全に埋めることはできなかったとは思いますが、自己否定をマイナスと考えてみて、マイナス100の状態をマイナス50か40ぐらいにする場所が、B所だったように思います。
B所ではどうやってプラスを獲得したかというと、実は自分でも明確にはわかっていません。あえて言うなら自分をひとりの人として認めてくれたことになるのでしょうが、何か特別な手法をしてもらったわけでもないです。ですが、こういった「日常的なこと」こそ、自己感情を肯定的にも否定的にもしうるではないかと思うのです。
通信制高校を卒業したあと、自分は大学に進学しました。推薦入試を受けたら受かってしまったので、自分の理想とはだいぶかけ離れた学部でしたが、受かったものは儲け、行くだけ行ってみるか、と。
大学に進学することで家を出られるチャンスかもしれないと思いました。中学のときより幾分マシとは言え、家にいることはまだ苦痛でしたし、大学まではやや距離があったし、これまで学校に通うと言えるのかどうかの生活をしていた自分からすると、「これまでほとんど家にいて長い距離を通うのはいやだから、下宿したい」と言えば、もしかして認めてもらえるかもしれない、と思ったのです。
しかし、一人暮らしは認めてもらえませんでした。通えなくはない距離だから自宅から通え、と押し通されてしまいました。これは「うまくいけば」という程度で考えていたので、まだ親の監視下は続くのかと思いながら、一方で仕方ないかとも思えました。自家用車での通学は認められていましたが、車の免許はまだ持っていないので、公共交通機関で通うしかありません。
大学には推薦入試で合格したこともあって、年が明けてセンター入試を受けるということもなく、年が明けてすぐから4月までは、楽に送らせてもらいました。弟は朝から夕方まで部活で帰りは遅く、それでもきょうだい仲はよく、普段の日常と大して変わらない日々を過ごしていました。
「本当にうちには受験生がいるのか?受験生がいるという空気がまったく感じられない」
父は相変わらず言い続けましたが、母が父に直接は言わなかったものの、
「推薦でも合格したものは合格したものだし、それもひとつの方法だと思うんだよね。いいじゃん、別に」
と、この考え方には助かりました。ちなみに我が家は、弟も高校については推薦入学で決め、やはり推薦入学で専門学校へ進学しているので(これはこれで前述のように専門学校を見下している父との葛藤があったようです)、この先も父が求めるような受験生がいるらしいピリピリした空気を出すことなく終わっています。
高校の卒業式を迎えるのが、実はいやでした。高校を卒業することがいやだったわけではなく、もちろん大学に進学することがいやだったわけではなく、別に問題がありました。
「もしもし?」
聞こえてきたのは、父方の親戚の声でした。
「すごいな、大学に行くんだって?学校に行けなかったのに、それでも合格しただなんて本当に努力して!」
親戚はこちらに何も言わせず、次から次へと自分に電話越しに話しかけてきます。
「お祝いしなきゃだろ?卒業式の前の日にはそっちに行くから」
と言われたので、
「ちょっと待って、自分だけじゃ返事できないから」
と答えると、
「いいって、あとで電話を切ってから聞けばいい」
と言われた以上は従うしかなく、言われたとおりに受話器を置いてから、
「親戚がこっちに来るって、聞いた?」
と母に尋ねました。母は自分が電話に出る前に、親戚と電話で話していました。
「え?さっき何も言ってなかったけど」
「卒業式に合わせてこっちに来るって」
「何でそれを言わないの!電話の途中でも言いなさいよ!」
母にはそう言われても、親戚に止められたのです。
「電話を切ってから言えって言われて――」
言うことを素直に聞いただけの自分が怒られる必要はないのに怒られかけたので、ありのままを言うと、母も言葉をぐっと飲み込んで、
「で、いつだって?」
「卒業式の前日って言っていたから」
母は立ち上がると、カレンダーに親戚の苗字の頭文字を書き、
「で、いつまでだって?」
「何も言ってなかった。でもたぶん――、お祝いしなきゃって言ってたから、卒業式の翌日までは少なくともいるんじゃない?」
母は大げさにため息をつきました。
自分として気になることがありました。
「学校に行けなかったけれど、大学に合格した」
「大学に合格するのに、大変な努力をした」
親戚はさっき、電話でそう言いました。実は1度だけではなく何度も繰り返し言われたのです。自分の中ではどうもすっきりしない気持ちがありました。「学校に行かなかった」「大変な努力をした」というところが引っかかりました。
このとき、この後も自分にとって学校に行かなかったことそのものについては大変な思いをしたことだとは思っていませんでした。あとで振り返ってみて、学校に行かなくなったことで自分を含む周りに起こったことや、人に対する信頼関係の部分では若干大変な思いをしたかな、と思うことはありました。
ところが親戚は、学校に行かなかったことに焦点をあて、どうも自分が学校に行かない時代を経て大学進学を決めたことを、勝手に美談に仕立て上げられているような気がしてなりませんでした。自分自身は美談とも何とも思っていなくて、中学は行かなかったけれど、あとは流れるままに進んだ、それだけなのに。
親戚は、自分を自分として見てくれない。「学校に行けるかどうか」で、自分を判断していたんだ。それは、今までも、これからも。
あまり特別に騒がずに、普段どおりそっとしておいてほしいと思いました。親戚は学校に行ける自分としか見ていてくれなかったんだと気づいて、悲しくなりました。
■ 高校在学中の生活 ■
日中は絵の下書きをして、母が買い物などで出かけて不在のあいだに、ペンでなぞる、などの片付けに手のかかる作業をしていました。ちょうど高校の近くに大手の小売店があったので、毎月の小遣いと相談しながら、イラストを描くのに必要なペンやインクを買って帰ってきては使って、ちょっとした漫画家気分を味わっていました。
勉強以外の理由としては、飲食店でアルバイトしたいと言うと、
「お前みたいな要領の悪いやつが、注文とったり料理つくったりできる訳がないだろ」
それならばスーパーやホームセンターなどのレジは、と言うと、
「対応に手間取って迷惑かける姿しか見えないな」
と返され、「アルバイトをしたい」という気もちを、まず否定されることから始まり(それも自分を)、つまりはどんな業種であれアルバイトをさせたくなかったのだろうと今なら思いますが、「こんなに否定される自分は、アルバイトさえもできないのか」
と落ち込んだのも、事実です。
アルバイトをしなかった分勉強できる時間は圧倒的にたくさんあったはずなのですが、自分が思っていたようには勉強が進みません。特にがんばらなければいけない科目もわかっていたのに、そちらについては基礎的な部分がほとんどで、もっとレベルの高い部分については手を出せない状態で、早くもあせりが出てきました。
あせると同時に父からはプレッシャーをかけられます。
「○○さんのところは夜も相当遅い時間まで睡眠時間を削ってやっている。それに比べてお前は夜はテレビを見ては笑い、日付が変わる前にはさっさと寝て、朝も起きる時間は遅い。それで大学に行けるとでも思っているのか?」
これが3年生となると、さらにプレッシャーがかかってきました。
「お前はどこの大学に行くつもりだ?まさか有名大学以外を考えてるわけじゃないよな?」
といとも簡単に名前の通った大学名を並べ、一方で
「専門学校?どうせ落ちこぼれが行くところだろう。短大?そんなの就職に不利だ」
と、自分の価値判断だけで語るのです。
このとき、母は自分のことをある程度理解したようなことを言ってくれました。
「今ヒロが学校に所属しているというだけでお母さんは安心なんだから、とりあえず卒業だけしてくれたらいいから。その先は専門学校でも大学でも、行きたいところに進学してくれればいいから」
勉強を強要しない点については助かりましたが、卒業にこだわっていたり、その先には進学することしか考えていないのかとも受け取れる発言でした。
■ 誰が話すもんか ■
学籍上は高校生になってまもなくぐらいのころ。弟が特に仲良くしていた同級生に、学校に行き渋る子がいたようです。母は子ども会のつながりがあって、その子のお母さん経由でその子の様子を聞いていたようです。
あるとき、リビングにいた自分に母が声をかけてきました。
「あのさ、ヒロ。○○(弟)の友達の、Aさんっているじゃない?」
自分としても弟から仲良くしている何人かの名前を聞いていたことはあって、そのなかの一人でした。名前だけは知ってると答えたかと思います。
「Aさんのところね、学校に行きにくいみたいでさ、週に何日かは休むみたい。行くときも、すごく暗い表情をして何とか我慢しながら行っている感じなんだって」
母がなぜ弟の友達のことを話し始めたのか最初はわかりませんでしたが、学校に行きにくいみたいと言われたところで自分との共通点がある、と思いました。
「でさ――。お願いなんだけどさ。Aさんに、ヒロの気持ちを話してもらえないかなぁ」
母が困ったような笑顔で自分に頼んできました。
「えっ、えっと――」
自分としては、曖昧な返事だけをしておきました。はっきり断ったとか、いやいや引き受けたということはなかったです。返事は曖昧でも、実際は「そんなのお断り」という気持ちで、母に対して苛立ちだけが募ってきました。
今でこそこうやって自分の体験についてはどれだけでもお話しできるのですが、ではなぜ、母に「話してほしい」と言われて、苛立ちだけが出てきたのか。それは、自分の意思ではなかったからです。自分が話したいと思うのならともかく、なぜ、母とはいえ他人に促されて話さなきゃならないんだよ、と。このころは自分の体験を曝け出すことが何より恥ずかしく、また、学校に行かない経験はこのときの自分にとっては自分史の中からいち早く抹消したい部分でもありました。それも知らずに話せと言われて、「誰が話すものか!」と思ったのです。
これは今だからこそ思うのですが、そのときは、まだ学校に行かなかった中学時代からそんなに経たないころで、自分の中で整理がついていなかったのかもしれません。言葉にすることである程度整理ができると書きましたが、まだその段階になかったのかもしれません。
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