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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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体験談2017.9.27

■ 学校に行けなくなる病気 ■

 学校に行きたくないと思う自分を認めたくなかったのには、ある日、父から言われたことが関係している気がします。
「学校に行こうとすると、玄関で立てなくなったり、体調が悪くなったりする、『登校拒否』という病気がある」
 父はこんな病気のことを教えてくれました。明確に登校拒否という言葉を使ったことも覚えています。
 自分は学校に行きたくないと思うことはあっても、学校に行けている。玄関で立てなくなったり、体調が悪くなったりすることもない。憂鬱な気持ちだけ何とか押さえて学校に行きさえすれば、1日何とかなってる。だから自分は病気じゃない。そう言い聞かせながら学校に行っていたことを覚えています。同じ小学校内に弟もいて一緒に通学していたことから、何も理由なしに休めないと気を張っていた部分もあるかもしれません。
 簡単に言ってしまえば
「子どもが学校に行くのは当たり前」
「当たり前である場所に行けないのはおかしい」
だったのです。自分にとって登校拒否(不登校)は、自分とは無関係で別世界のこと、関係のないことだと思っていました。たとえ病気だと言い訳が成り立っても、学校に行けなくなること自体おかしいと思っていたのです。もちろん今では学校に行けなくなるのは病気だとは思っていませんし、何かのきっかけで誰にもありうることだと思っています。
 このような調子だったので、本当は学校に行きたくないと言うと、病気でもないのに自分を病気扱いすること、学校という当たり前の場所にも行けない悪い子だと認めてしまうことになるようで、登校拒否という病気があると教えてくれた父にも、本当の気持ちを言い出せませんでした。
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体験談2017.9.20

■ 何かがちがう ■

 これはたぶん誰にも言ったことがないのですが、下校途中に自宅まで追いかけられたことがあります。自分が交差点で立ち止まり、一旦曲がるふりをして急に直進しだすと、追いかけてきた側も交差点を曲がったにもかかわらず急に向きを変えてこちらにやってきたので、たぶん間違いないと思います。幸い自宅がすぐ近くだったのであわてて駆け込み、鍵をかけました。
 そのとき自宅にいた母は、何事かと尋ねてきて、
「今、変な人に追いかけられた」
とは言ったかと思います。

 そのころから自宅付近では、顔が見えないように伏せがちに歩く人の姿が目につくようになりました。見知らぬ人に追いかけられた経験があるので、見ず知らずの人を怪しいと感じる警戒心はかなり強かったと思います。
 その人が、毎週定期的にやってくる移動販売のパンを買っていました。自分もそのパン屋は利用していて、母といつも一緒に買っていました。
「ね? ほら、なんともないでしょ?」
 その怪しい人を見て、何ともないから安心しなさい。と、続いたかもしれませんが、何の解決にもなっていないなと、もやもやする気持ちだけが残りました。
 まず、先日後を追いかけられた人と、この明らかに様子が怪しい人とは、容姿がまったくちがいます。先日追いかけられた人は紺色の作業服。背はそんなに高くはないけど、速足で歩く人でした。この怪しい人は、いつも姿を見かけるたびに同じ服装。でも作業服ではない。背中を丸めているからかもしれませんが、背は低く、歩く速度は特に速くも遅くもないぐらい。
 母には容姿がどんな感じだったかを何も言っていなかったので、母はまったくちがう人を見て、自分に安心しろと言ったのです。

 これならわかりやすい「何かがちがう」ですが、もうひとつ、「こっちは本当に怖かったのに、怖かった気持ちをものすごく軽く扱われている」気がしたのです。怖い思いをさせた相手と対峙させて襲ってこないから大丈夫――、そんなわけありません。言葉にはしなくても、怖い思いをしたんだということに気づいてほしかったのです。
 表の部分だけを解決して、内側の部分を見てくれない――。前に担任だったある先生が、こんなたとえをしていました。
「海の上に小さな氷の塊が見えて、それをただの小さな塊だと思って近づいたら、船の底が大きく傷ついて沈没した。海の上には小さくしか見えていなくても、中には大きい塊があるかもしれない。こういう状態を、氷山の一角、と言います」
 氷山の一角とは少しちがうかもしれないけれど、自分はこの氷山の見えない部分も気づいてほしくて、まずは些細なことから母親に言うようになりました。クラスメイトが今日も忘れ物をしたこと、体育で跳び箱が飛べなかったこと――。
「○○さん、ドジなんだよ、きっと」
「それは仕方ないよ、お父さんとお母さんの子だもん」
 母はいつも笑って返してきましたが、自分が求めていたのはこんな答えじゃなくて、その結果起こる担任からの罵倒が嫌だったのです。

 誰かが忘れ物をすると、その責任は学級委員の自分に来るんだよ。
 跳び箱が飛べないと、みんなの前で飛べない姿を晒さなきゃいけなくて、恥ずかしいんだよ。
 
 母が笑って返すひとことで、本当はもっと話を聞いてほしいのに、この人に話したって何の解決にもならないな、と思うことが、どんどん増えていきました。些細なことでこのような感じなのですから、本当に話したいことなんて話せるわけがありません。
 自分が学校に行きたくないという気持ちも、母には言い出せないままでした。
体験談2017.9.13

■ 行きたくないと何度も感じるのに、それでも ■


 小学生になり、雪の多い地域でしたので冬になると通うのは大変でしたが、6年間大病をすることなく通いました。一方で、大きかれ小さかれ、何かの問題を起こしていました。問題を起こすといっても軽微であったり巻き込まれたものもありますが、ここでは小学校高学年のころについて書きます。

 小学校5年の担任が、当時で30歳台前半という年齢の割には体育会系の古いタイプでした。男勝りな女の先生でしたが、言葉遣いも荒く、音楽のパートを男女別にする、子ども同士の揉めごとの際には片方だけの言い分を一方的に聞いて、もう一方には弁明の機会を与えずに問い詰める、脅して押さえつけるやり方、など。
 小学校に入っても運動神経の鈍かった自分は、再び格好のターゲットとなってしまいます。跳び箱が飛べないと、みんなの前での個別指導。がんばれ!という声が、どれだけ恥ずかしかったか。縄跳びが飛べないと、
「ふざけるのもいい加減にしろ」
 こちらだってふざけて早くひっかかっているわけじゃありません。算数の問題が解けなかったり、自分の想定とはずれた答えをする子には、
「何度も言っているだろ!お前は脳みそが腐ってるのか?」
「お前の答えはおかしい。そんな解き方はこの世の中にはない」
といった個人を否定する言葉がどんどん飛び出る人でした。後で知ったことですが、これでもある教科の指導にはそこそこ定評があったようで、ある報告会の発表者にこの教師の名前を見つけ、配布された資料が掲載されていたので見てみましたが、あいつがこんなえらそうなことを言う立場にいるのか?と気持ち悪くなったことを覚えています。
 そのようなピリピリした空気の中で学級委員になってしまいました。運動神経は悪かったけれど勉強がそこそこはできていたのと、1クラスあたりの児童の人数が少なく、誰かしらが何かの役につかないといけない状態でした。学級委員になったのは小学5年の後期でしたから、もっともタイミングが悪い時期でした。このころは次の学年に向けて、学校全体のリーダーとしての自覚を否応にも植えつけられるからです。ですので、何かにつけて
「それでこの学校の最高学年になるつもりなのか!」
と怒鳴られました。担任にとって何か都合の悪いことが起こると、それもすべて学級委員の責任。「忘れ物が多いとはどういうことだ!学級委員!」
「そう言われても自分にもわかりません」
と言えればよかったのですが、そこまで言う勇気などありません。教師の言うことは絶対という空気、教室中には不穏な空気が漂い、渋々学級委員が前に出て忘れ物をした子どもに反省を促し、ではどうすれば忘れ物がなくなるかを話し合います。話し合ったところで結局は個人が気をつけるという結果に落ち着くのですが、それが担任の意に沿わなければ1時間目の授業をつぶしてでも反省会は継続される。忘れ物をした子どもだけでなく、たとえ忘れ物をしていなくても学級委員も同じように責められ続けるのです。そして1時間目が終わると、
「ほら見ろ、お前らのせいでせっかくの1時間目がつぶれた」
と、どこまでも子どもに責任を転嫁し責め続けられました。
 問われたことに対して、相手にとって最適な答えとなるように、逆上させないように、火に油を注がないように答えるために、常に担任の顔色を伺っていました。言葉だけでなく、態度だけでなく、表情だけでなく、もう体中から怒りのオーラをばらまくような人でしたから。

 この担任は前任校でも高学年を受けもっていたことが自慢でした。いつも
「前の学校では5年生や6年生はこんなにみっともない子はいなかった」
が口癖でした。高学年に慣れていることと正しい指導ができるかどうかは別物であると理解したのは、このころでした。
 気がついたら、何度となく保健室に足を運んでいました。特に理由があったわけではないんですが、「自分は具合が悪いんだ」と頭で一生懸命思い込んで、1日の中で1回は、休み時間に保健室に行き、熱をはかっていました。でも数字上は平熱、休むなどの措置はなく、何もなく教室に戻されました。

 今思うと、クラスの中にいることがつらく感じ始めていたのかもしれません。小学校は基本的に全部の教科を一人の教師が教えるため、出張や休みなどでない限り、1日の中で必ず担任の顔を見るわけです。その当時は自覚していなかったけど、何となく学校に行くのがいやだな、という感じがあったのかもしれません。
 自分にとって小学校、特に高学年に入ってからは、幼稚園のときのように自分を肯定されることなく、常に評価のまなざしに晒され、担任の顔色をうかがう過剰な気づかいの場だったのではないかと振り返るのです。そうして学校に行きたくないと思いながらも、学校に行きたくないと思う自分を認めたくない部分がありました。
体験談2017.9.6

■ みんなと同じでなければいけない ■

 何となくいやだなと思いながら、休む理由がない限りは幼稚園には行っていました。
 それはなぜか? みんなが行く場所だったからです。自分が行きたくないんだという気持ちを何となく感じながらも、それを言語化するなどの整理した形にできなかったからではないかと思います。ずっともやもやとした気持ちはあっても、それがどういったものなのか自分でもわからず整理できないまま、そのままずるずると過ぎていってしまったように思います。悶々とした思いを抱えながらも毎朝母にせかされるように支度をし、幼稚園に行く。これが流れになっていて、いやだと思いながらも幼稚園に行くことが当たり前になっていました。

 ここで少し家族のことにも触れておくと、両親は決して自分や弟を遊ばせなかったわけではありません。プールなどにもつれて行ってもらったし、外遊びをしなかったわけではないし、夏には海水浴やキャンプに、冬でも外で雪遊びをしていた覚えがあります。むしろいろいろなところへつれて行ってもらった覚えのほうがあるぐらいです。
 外遊びやレジャーにもつれて行ってもらったのに、運動神経は身につきませんでした。ある程度大きくなると、「自分は運動神経がもともとないんだ」とあきらめがつくようになるのですが、このころは他の人にできて自分にできないことが不思議でした。
 それまで家族の中という異年齢の小さな枠の中で過ごしてきて、幼稚園という同年齢の集団の中で初めて気づく、「自分は他の人と何かちがうのかもしれない」という気持ち。「みんなと同じようにできなきゃいけないんだ」と、自分を奮い立たせるつもりが追い詰めていたとは、このときは思っていませんでした。
 「みんなと同じようにできないといけない」。この言葉は後になってもずっと自分のことを縛り続ける言葉として残っていきますが、それはまたいずれ語ると思います。
体験談2017.8.30


■ 自己否定を育くむ場所 ■

 自分の記憶にない時代をさかのぼると、生活の基盤は、地方の小さなアパートがスタートだったようです。物心がついたころには、自分の周りには両親はもちろん、弟もいました。
 程なくして一家で一軒家に引っ越し、このときから祖父母との同居が始まりました。同じタイミングで幼稚園に通うようになりますが、自分は幼稚園が嫌いでした。
 嫌いだったとはっきり気づいたのはだいぶ大きくなってからですが、どうして幼稚園に通わなければいけないのだろうと思ったことだけは覚えています。特に嫌いだったのが晴れた日でした。
 晴れた日には園庭で遊ぶことが多く、この園庭遊びが自由に遊ばせてくれるのならいいのですが、鉄棒をやるだとか、大縄跳びをするだとかとなると、
「うわ、鉄棒だ」
「縄跳びか」
という気持ちになりました。自分ができない姿をみんなに晒すことが、恥ずかしくていやだったのです。ただできないならいいんですが、必ずそこに入ってきたのが、担任や、他の同じ年齢のクラスの教諭による評価のまなざしでした。
「何でいつもできないの?」
と、問い詰められ、できた子とできなかった子は分けられる。できた子の人数がどんどん増えていくのを、複雑な気持ちで見ていました。
「もっとお遊びの時間に練習しなさい」
とまで言われたように覚えています。一定の条件下でならばできたので、練習する必要があるようには思いませんでした。
「ちゃんとできるのに、どうしてできないって言われるんだろう?」
 不思議で仕方がありませんでした。
 そのうち鉄棒ができないメンバーは固定化されていき、
「いつもできないのはこのメンバー!」
「できない子はお部屋に帰れないよ」
と脅される始末でした。
「本当はできるんだよ!先生はできるところを見てないでしょ!」
と言いたくてたまりませんでした。しかし相手は大人、先生。幼稚園に入るまで自分の周りはほとんどが大人の中で育ってきて、
「大人の言うことは正しいのだから、言うことを聞かなきゃいけないのよ」
と、ずっと祖母から教えてこられました。先生は大人だ、だから言っていることは正しいんだと信じて反論せず、できない自分が悪いんだとずっと思っていました。
 先生が指定するものよりひとつ低いところでならできていたのですが、先生が指定する高さでできなければいけないんだ、と。自分ができるようになりさえすれば、怒られないんだと思っていました。
 
 幼稚園は週2日お弁当で、あとは給食でしたが、いつも給食の時間が終わっても食べている常連でした。ある日、通院する関係で早く迎えに来た母に、先生が笑って言った言葉が忘れられません。
「いつも給食残して、好き嫌いばかりしてるからよ」
 食べ物の好き嫌いはほとんどないのに、小食だったので時間内に決められた量を食べきることができなかっただけ。そして母も先生に便乗してこう言う。
「ダメじゃないの、好き嫌いしてちゃ」
 なぜ給食が苦手だったのかは今でもわかっていません。今でも食べ物の好き嫌いはあまりないほうだと思いますが、家では好き嫌いなく食べている姿を見ながら、親が先生と一緒になって自分を責めたことは、忘れません。

 幼稚園の先生はその子のためを思って、もっとがんばりなさい!という気持ちで言っていたのだと思います。それで本当にがんばれる子もいる一方で、期待に応えなきゃと努力するも、どうにもできなくて、「自分はダメな子、できない子」とどんどん自分を追い詰めて萎縮してしまう子もいるのです。
 親も自分の子どものことをかばうことなく、先生と一緒になって自分を否定していたことで、小さいころから、どう努力してもできない自分に嫌気が差して、「どうせ自分なんて何をやってもダメ」と考える自分が育まれていたように思います。
 自分を否定されても、それでもがんばらなきゃと思うのは、できないままでは周囲に見捨てられるのではないか、という恐怖から。しかし実際はがんばってもできない。もう自分なんて認められる・愛される資格なんてないんだと絶望する。まだ4歳、5歳といった小さなころから自己否定感が育まれていた気がします。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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