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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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ラヴニールの代表である私は、現在子育て真っ最中でもあります。日々成長する我が子とのかかわりの中で、「そっか、こういうことなんだ」と、すっと腑に落ちたというか、そんな経験がありました。

フリースクールに関わる私たちだけではなく、様々な支援的なかかわりをしている者同士、「信じて待つ」ということで時には議論になることがあります。

いつまでも待っているだけじゃなくて、何かアプローチをしていかないと、いつまでも状況は変わらないんじゃないか。
こちらが何かするのは、相手をそれだけ信頼していないってことになるんじゃないか。

どれだけ「信じる」べきか。
どのぐらい「待つ」べきか。

時に極端に「する・しない」の対立が起こり、選択肢が2択しかない、そんな状況が生じることもあります。



さて、「すっと腑に落ちた」話の本題。

先日、子どもが洗たくカゴの中におもちゃを落としました。洗たくカゴの高さは、子どもの腰よりも少し高いぐらい。手を伸ばしておもちゃを取ろうとするも、届きません。
 
私は、さて、ここでどうするんだろう? って、ほぼ興味本位で、我が子を観察することにしました。同時に、我が子の次の行動を想像してみました。
私の頭には私か夫を呼ぶか、一生懸命取ろうとしてる姿をアピールして「取って♪」の、どちらかかな、と思っていました。
 
すると、我が子は。
 
まず洗たくカゴを倒し、カゴの中にあった洗たくネットをよけて、落としたおもちゃ以外はすっかりからっぽになったカゴの中に体ごともぐるように手を伸ばし、見事におもちゃゲット。
思わず、
「うわ~、頭いい!」
と言ってしまいました。

私は、「我が子は誰かに頼る」ことしか考えていませんでした。それを欺くかのように、我が子は自分ひとりでおもちゃを拾って見せた。本当に、見事に裏切られた感じです。
 
そのときふと、思いました。

もしかして我が子は、私が思っている以上にいろいろできるのかもしれない。
もちろん、「我が子が自分でできるように」と何もかもほったらかしにしておけ、というわけじゃなくて、我が子から何かしら要求があればそれに応えるのも大事だと思います(今回も助けを求めるようであれば、おもちゃを拾うつもりでした)。
 
一方で、「どうせこの子にはできないだろうから」と、何もかも手を出しすぎていやしないか、とも思いました。 
感じたことをうまく文章として表現するのは難しいですが、「信じて待つ」って、もしかして、今あったできごとみたいなことなのではないか、と。そしてその結果が自分の思っていたのとは異なっても尊重することなのではないか、と。

(「尊重してはいけない考えや行動」もあるかとは思いますが(たとえば犯罪性のあるものなど)、ここでは度外視します)


「信じて待つ」のは、言葉以上にもっと深いものがあるとは思いますが、その一端を、頭ではなく体で理解できたような気がしました。


子どもから学ぶ。本当にそうだな、と。
頭でのみ理解した「つもりになっていた」ことが、つながったように思いました。
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ラヴニールの新しいホームページ、もう、見ていただけましたか?
まだだよ! という方。ぜひぜひ、見てみてください。

フリースクール、サポート校、るぱっせ、それぞれがきれいに分かれて、見やすく整理されたかなぁと思います。
2つ、もしくは3つとも関係しているものは、「フリースクール」に集約されています(例、月の予定とか)

さて、ラヴニール、というか、これは代表のこだわりなのですが、ラヴニールのホームページ上では、ある文言を使っていません。
いや、使っている部分もあるし、使わざるを得ない場所では使うので、完全に「使っていません」とは言い切れませんが、可能なかぎり使わないようにしている言葉があります。

本音を言うとあまりイコールであるととらえられたくないのですが、「フリースクール」というと、だいたいセットになる言葉。

不登校 です。

簡単に言うと、「学校に行けていない状態」のこと、とでも言いましょうか。
確かに学校に行けていない状態のことを表すにはもってこいの言葉ではあると思うのですが、それでもこだわって使わないようにしています。

「不」は、それ1字だと、否定・打消しの意味を持つ字です。中学校で漢文の授業でやりませんでした? わかりやすいところだと、地名などとしても残っています。「親知ら」(親不知)だったり、「しらい・しらひ(不知火)だったり。

不登校は、そうすると、「登校」を打ち消し・否定することから、「登校せず」といったところでしょうか。

が、どうも、この言葉、しっくりしない。

というのは、ここから先感覚の話になってしまいますが、登校できないことを、ものすごく否定的にとらえられている気がするのです。学校に行くことが大前提になっている今の日本の中で、この不がつくだけで、イメージはかなり変わります。

登校できないのっておかしいことなのではないか。
みんなができていて、なぜうちだけはできないのか。
みんなと同じようにできない子を育てた自分(親御さん)がいけないんじゃないか・・・

「不登校ですね」って言われることで、これだけの負い目を感じられる方が、まだまだいらっしゃいます。

そこで、う~ん、と思ってしまいます。

学校に行けないってこと(現象)だけで考えていないか?
なぜ? どうして? の部分まで、先入観なしに考えられているだろうか?

こう考えながら整理していったら、たとえ少数派であったとしても、「学校」という場が、その人にはあっていない、ということだって考えられる。
合わない場所に合わないからって、「不」の字をつけられるのは、おかしいんじゃないか? 

合わない場所に少しでも合わせられるようになることも、時と場合によっては必要かもしれないけれど、ひとりひとりの背景に配慮せずに十把ひとからげに否定の字をつけるのは、何だかちがうなと思うのです。
本来合わせなきゃなはずの場所が、合わせるに値しない場所、という場合だって考えられますし・・・。

そう考えたら、やはり「不登校」という言葉は、なんだか違うな、と思うのです。


そこで、ラヴニールが代わりに使っているのは、

「学校に行けない・行かない」

あれ? 「ない」は否定だよ?

・・・ハイ。正直、私の足りない脳みそでは、これが限界なのです。
しかも、置き換えたはずの文言は余計に長くなってるし! う~ん、何かいい案はないかしら。

ただ、他のフリースクールさんたちが、不登校、という文言を使っている中で、ラヴニールでは、あえて使わない! というスタイルを貫いています! この点だけ、ちょっとちがうかもしれません。

学校に行かないから、行けないから、と否定されることは、何らありません。
ゆくゆくは、学校に行こうが行くまいが、その人が選んだ道をその人が決めていけるようになればいいな、と。
これが当たり前になったときには、自然と、「不登校」なんて言葉がなくなる。そんな時代に一歩でも近づけられるよう、やっていきたいなと思います。

思うこと2017.10.18
毎日移転関係の記事だとさすがに飽きてしまうので、たまには趣を変えまして。
Hさんが、小学校のときの思い出を語ってくれました。
 
 
 
私が卒業した小学校は、ものすごく珍しい学校だったと思います。田舎育ちだとはいえ、その市は県の中でも2番手の市で、市の主要駅からも大人の足なら徒歩20分弱ぐらいの、住宅街の中にある小学校でした。

そんな、どこにでもありそうな小学校には、小さな小さな「森」がありました。
 
・・・といっても、やせた細い木がひょろっと生えた小高い丘のような場所で、とても森なんて呼べるような場所ではありません。
こんな場所だったけど、私はこの森から様々なことを学びました。
 
秋が来て葉が紅く染まることを「紅葉」と言うと知ったこと。
 
自分が1年かけて観察する木を決めて、観察日記をつけたこと。
 
観察日記なのだから、木の絵も描きました。色の塗り方が上手な子がいて、どうやったらきれいに塗れるのか教わったこと。
 
観察を始めて1年ちょっと、ようやく花が咲いたこと。
 
特定の木を決めて観察をしていたのは1年間だったので、花が咲いたときには特定の木の観察は終わっていたのだけど、以後もずっと、気になる存在ではありました。
 
その後もずっと、森を通じての学びは続きました。
特定の木にとどまらず、森全体へと観察対象は広がって、
 
どの木のどの花がいつごろ咲くのか。
 
木の名前の由来。
 
などから、森を通じてもっと広く、「酸性雨」などの環境問題について取り上げることも。
 
教科でいえば「国語」「理科」「図工」「社会」などにあたるでしょうか。森を観察している間は、このような教科による縦割りに区分されることなどなく、複数の教科にまたがるようなことを、自然にやっていたのです。
 
私たちの学年は、卒業するまでの間で特定の木から森全体へ、と、森のことのみで終わりましたが、中には、森での学びから環境問題へと発展する学年や、、森だけでなく近くを流れる川のことへと内容を発展させることもありました。

omoide.png

こういった学びは、今の時代に合わせた言葉でいえば、「総合学習」ということになるのではないでしょうか。
 
私たちの時代にはまだ「総合学習」といった言葉はなかったけれど、教科にとらわれず、ひとつのことから始まって学びの範囲を広げていく・・・。
これは、どこかの私立の小学校の話ではなく、ごく普通の、公立小学校での話です。
 
経験する何事も学びである、と考えるのは、このような体験からです。何も森だけが学びの場所ではなくて、日常のありとあらゆるところに学びは転がっていて、それをひとつの教科に押し込めるのではなく、あらゆるものとつながっている。そのつながりは、自分自身を豊かにする。
 
だから私は今でも、学ぶことが大好きです!
昨年、ボクの中の違和感 というタイトルでメールをくださった方が、今年もメールをくださいました。
今年はあえて何も言いませんが、相手の気持ちをしっかり受け止めるうえでの大事な点が、ここに隠されている気がしました。

最後の問いかけに、答えが出せていません。

(このメール文を投稿することについては、投稿者の許可を得ています)


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


今年も懲りずに違和感を文字にしてみようと思いました。

やっぱりどう考えても、僕には違和感しかないんです。8月の末から9月にかけての、子どもの自殺を防ごうとする動きが。

自殺を防ごうとする動きそのものには、僕は否定するつもりはありませんし、自らの手で命を絶つことについても、死を選んだ人を賞賛するわけではなく「なぜ死んでしまったんだよ」と、悔しく残念な気もちになります。

それでも、声高に「死んだらだめだよ」と運動が起こることには、うまく言葉にできないかもしれませんが、一種の気もち悪さを覚えるんです。

これは、ある人とやりとりしていて、思わず「そうだ」と思ってしまったものです。やりとりをしていた相手の方から転送の許可をいただきましたし、二次利用もして構わないそうなので、お送りします。



みんな「死んだら駄目だ」と言うが、なぜ死んだら駄目なのか。自分で自分の道を選べというくせに、いざ選ぼうとしたら、なぜ止めようとするのか。

同じように「命は大事」だと言うが、どうして大事なのか、誰も大事な理由を教えてくれない。ただひたすら「大事なものは大事」だと言うだけ。もっとちゃんとした理由がほしい。

「死にたい」に対して「死んだら駄目」と言葉尻だけをとらえて言うのは簡単だ。
でもそんなのは、ただ表面だけを整えたにすぎない。

海で、小さな氷のかたまりを見つけたとしよう。「小さくてかわいいわね」と言っている水の下には、大きなかたまりが隠れているかもしれない。氷山の一角。隠れた大きな部分に気づかないことには、意味がない。

自分は決して死のうとしてる人に「死ね」と言いたいわけではない。でも簡単に「死んだら駄目だ」とも言いたくない。
死んだら駄目だと言うだけのおせっかいにではなく、いつまでも話を聞いていられる人になりたいし、自分も聞いてもらえる人にめぐり会いたい。アドバイスなんていらない。

子どもの自殺を防ごうとする人たちには、この気もちに気づいてほしい。



短いメッセージのやりとりをしていて、相手の人の発言をまとめたものです(転送前に、この状態で送ることの許可をもらっています)。ちょっと言葉にきつい部分はあるかなと思いながらも、感覚はほとんど僕と同じ。特に、氷のかたまりの部分はすんなり納得できました。

代表さん、このような発言を読まれてどう思いますか? お時間のあるときで構いません、お返事をください。
【あのとき学校に行かないと将来がないよ、と言った人へ】

 私は小学校で学校に行きにくくなり、中学校は数日行っただけで完全に行かなくなった。
 学校に行きづらくて休むようになったころ、学校の先生が家に来て、「学校に来て勉強しないと、将来生きて行くのに困るよ」と、毎日学校に来るように言ったことを覚えている。数日行っては休み、また数日行っては休み、そうしてだんだん行く日のほうが減り、休む日のほうが多くなった。
 中学生になったら学校に行けるようになるよね、と言ってくれた親戚もいた。その親戚も、中学生になっても学校に行けるようになるどころか完全に行かなくなった私に、「学校に行かなくてどうするの。お友達はみんなつらくてもがんばっているのに。つらいのを我慢してがんばるから、将来幸せになれるんだよ」
 私には、もう我慢の限界だった。小学校の教室の中で当たり前にクラスメイトを罵倒する担任教師。忘れ物が多かったら、「忘」という字を崩して罵倒されるのが毎度の常。
「こんなに忘れ物をするあなたは、心が亡いのね」(「忘」を崩した関係上、誤字はわざと)
 その罵倒が自分に向けられたものでなくても、見ている私はつらくてたまらなかった。いざ自分も忘れ物をしたら、クラスメイトの前でああやって罵倒される。そう思ったらとてもじゃないけれど忘れ物なんてできなかった。まず家に帰ったら明日の時間割をそろえ、寝る前にも確認し、翌朝起きたら着替える前にランドセルの中を確認し、また出かける直前に確認し、4回確認しても忘れ物をしてしまったときには、本当に怖くて怖くてたまらなかった。夜寝る前になると、「また明日学校だなぁ」と嫌な気持ちになり、朝は朝で、家を出るギリギリまで「学校行きたくないなぁ」と思って、わずかな時間でケガをしないか、体調を崩さないか、期待をしていた。
 そうしているうちに、朝起きても頭が痛かったり、本当に体のどこかがおかしい日が増えた。体調がよくないことを親に言って、親から学校を休むことを電話で伝えてもらうと、不思議と体調のよくなかったのが落ち着いた。家では元気なので次の日には学校に行くつもりで準備をすると、また翌朝には体調がおかしくなる。連絡をするとよくなる。また翌朝には体調がおかしくなる・・・ この繰り返し。

 私の父が「登校拒否」という言葉を知っていて、私の状態は登校拒否ではないか、と気がついたようだった。気がついてくれたのはよかったのだが、私が学校に行きたくないがために、仮病を使っていると思い込んでいた。父は登校拒否のことを、学校に行きたくないがために仮病を使って休もうとすること、と誤解していた。
「学校に行かなくてどうするんだ。お父さんだって会社で嫌なことがあっても我慢している。今のうちからつらいことから逃げていて、大きくなったらどうするんだ」
 私としてもがんばってみた。がんばって行って、でも具合は悪いまま。そして休む。休むと体調はよくなる・・・ 
「学校に行かないなんて、あんたをそんなにわがままに育てた覚えはないんだけど」
 母からも言われた。
 中学生になっても、教室に入ると小学校のときの光景がよみがえってきた。後ろの席だったので、みんなが前を向いている姿勢が、小学校のときの一人が罵倒されている中で「俺は(私は)関係ないし」と赤の他人を装っているような感じと重なって見えた。中学校が怖くなった。

 今だから、何となく嫌だったことを整理して語ることができるが、学校に行かなくなったころは、どうして自分が行きたくないのか理由がよくわかっていなかった。学校に行こうとはするけれど、それでも体は行きたくないと言う。自分が思うことと体が別々の行動をしているということを、家族も親戚も誰もわかってくれなかった。同じような体験をした人は私の周りにはいなくて、私だけがおかしくなってしまったんだと悲しくなった。
 せめて家にいる間に教科書や問題集などを開いて勉強ができればよかったのだが、学校のものを見ると、家にいても体調がおかしくなることが、時々ながらあった。

 つらいことを我慢できない自分は将来のつらいことも我慢できないし、勉強もできない自分は将来困るに決まっている。もう自分は生きている価値がないんじゃないか。何度もそう思った。
 親はそのうち、学校に行かなくなった自分に対して何も言わなくなった。時々、学校に行く気はないのか尋ねられたことがあって、そのときには「放っておいてくれ」って思うくせに、何も言われなければ「どうせ私には何の希望も期待もないもんね」とウラを勘繰り、何でも否定に捉えていた。

 今、学校に行かなくなったころから約20年、将来がないと言われてきた私は、つらいことから逃げた私は、しぶとくもまだ生きている。気がつけば生まれてから学校に行かなくなるころまでよりも、学校に行かなくなったころから今までのほうが、年数が長くなった。あのとき私にいろいろ言ってくれた人たちには、将来がないだなんて嘘をよくも言ってくれたね、と思っている。
 でも、それも仕方ないとも思っている。学校に行かない経験をもつ人やその親って、学校に行っている人からしたら少数。日常の中では巡り会える割合がそれだけ減るということだから、同じような経験をした人と経験を語り合えていたなら、もっとちがったかもしれない。私の時代は、まだインターネットなるものが当たり前ではないころだから、情報を知るには人づてで知るか、新聞の告知欄などを見るのがもっとも有効なころ。今みたいに片手で簡単に情報を得ることができなかった。

 とは言っても、その嘘に振り回され、苦しめられたことは事実。親も、親戚も、学校の先生も。嘘で振り回すのは、決して他人ばかりじゃない。もしかしたら自分も振り回しているかもしれない。自戒の意味でも言うけれど、世間の常識という見えない概念にとらわれ、常識や概念ばかりを見て、個を嘘で傷つけたことは、私の中でずっと傷として残っている。時々、そうやって自分のことを傷つけた人の前で笑っていることが、ふとつらくなる。

 今私が言いたいことは、「嘘じゃなくて本当のことを、真実を伝えてほしかった」ということです。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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