大学も3年後期になると、他の友人たちは早くも就職活動を始めだしました。
「ガイダンスのときいなかったけど、どうした?」
と尋ねられて、資格でやっていこうと思っていた自分だったので、就職は考えていなかったのです。従って一番最初のガイダンスには出ず、途中のガイダンスも授業と重なったりして出ませんでした。別に強制のものでもなかったので、よかったのですが。
後期のテストが終わると、友人たちは一斉にリクルートスーツ姿になり、今日は企業をいくつ訪問しただの、今のところどこも手ごたえがないだの、それまでとは一変した状況に自分としても少し混乱し、資格でやっていこうと思いながらも、でも万が一のことも考えて、周りに流されるように、就職活動も併行して始めました。
「ヒロは企業にはどのぐらい行っているんだ?」
父に毎晩のように尋ねられました。
「中小企業中心にだけど、今のところ訪問予定も含めて○社ぐらい」
「中小企業?」
父がバカにしたように言いました。
「就職するなら大手がいいに決まっているだろ。お前はそんなに小さくまとまりたいのか?」
大手企業も決していやだというわけではなかったのですが、働くなら中小企業、ことさら個人事務所や小さな家族経営的なところがいいなと考えていました。
あるいは学童保育や何らかの子どもとかかわる施設がいいなと思っていたのですが、子どもに関する学部に通っているわけでもないし、資格を持っているわけでもないし、父が望む大手だと、どう考えたって塾などへの就職を考えていると勘違いされそうで、そうじゃないんだと説明すると、またいろいろとこじれてしまいそうで、なかなか言い出せませんでした。
自分で幅を狭めていたのだろうな、と今では思うのですが、当時はこのように、何の目標などもなく流されているだけだったので、思うように就職活動は進みませんでした。
「そうやって呑気にテレビを見ているということは、就職は決まったんだろうな?」
父に指摘されて答えずにいると、暴力を振るわれることもありました。髪をつかまれ、執拗に床に頭を打ちつけられました。涙が流れてくるのですが、痛さというよりも自分が就職もできなくて情けないという思いからでした。しかし、こうして暴力を振られ続けているあいだに、少しずつ気もちがかわってきました。
「助けてほしい。誰か、この暴力を止めてよ、痛いよ!」
暴力を振られ続けている間、母も、弟も、ただ見て見ぬふりをするだけ。誰も助けてなどくれません。今でも、父の暴力を思い出し、体が震えることがあるぐらいです。そして誰も助けてくれない、悲しさ、むなしさ。
でも翌日には、「こんなところがあるぞ?」と、仕事の提案をしてくる父なのです。けれどそれは、すべて自分の会社の系列。肩書きや学歴、規模の大小、メンツが大切な父です、断ったら、「俺のメンツをつぶすつももりか?」
と、また暴力をふるってくるのではと予想がつきました。
仕方なく、系列の一つに、パートという形で就職することにしました。
親の言いなり。自分でも気がついていました。20歳をこえ、大学を卒業して実家に戻る子もいるけれど、そのまま親元を離れて就職する子もいる。なのに自分は、いつまでも親の支配を受け続ける。
一刻も早く、この支配から逃れたい。でも逃れることができない。逃れなければ、いつまでも自分は自分として生きられなくなる。親の思う自分にさせられる――。
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