親との関係については、どれだけの人に相談したかわかりません。
過去にさかのぼればB所のスタッフだった人たち、パートの合間にたまたま行った不登校関係のイベントで知り合った方たち――。特に後者については、母も直接その人たちから話を聞いてほしいとどれだけ思ったかわかりません。しかし、母にとっては自分が学校に行くようになったことで「もう不登校は終わった過去のこと」。ニュースなどで不登校の話題が報じられると「学校に行けなくなるのって、何らか精神的に弱い、おかしい子よね」と言い出すぐらいだったので、自分とはもう無関係だから、と考えていたように思います。なので、参加してみたら? と声をかけることもありませんでした。
何かあっても相談できず、でも相談しなければいけないとなって相談するのはいつも期限ギリギリ。何でもっと早く相談しなかったと言われて、「だって、いつも傷つくから」と返したって、「誰がいつ傷つけたなんて言うの」と返ってくるのがわかっていたので、黙っているしかありませんでした。
「いつも相談するのはギリギリ!」
と、毎度言われていました。
相談するだけで気力を相当使い、その気力消費のほとんどが無駄に終わることが何回もあれば、相談なんてしたくなくなります。それでもちゃんと言わなきゃと思ってやっと口を開けた、ここにどれだけの勇気を割いているか――。
大学は何とか卒業し、その後は紆余曲折ありましたが、今は親元を離れています。親元を離れる宣言をしたときには、やはり否定・問い詰めの嵐でした。しかし、そのときには前例がありました。自分の弟が、家での束縛される生活に対して反旗を翻し、突然家を出ていったのです。専門学校に進学して国家資格を取り、その資格に関する仕事をしていましたが、帰りが遅くなることを親にとがめられ、しかし新人の自分(弟)が先に帰るわけにはいかない。そのしがらみにはさまれ、どれだけ理由を言ってもひたすら早く帰ってこいとしか言わず、ひどければ着信履歴すべてが親、それも残った履歴はすべて短時間のあいだ。メールで「早く帰りなさい」の連続受信。弟が、「こっちだって仕事の関係なのに、どうしたらいいんだろう」と相談してきたことを覚えています。そして親に対して、文字どおり「こんな家なんて出ていく!」と宣言し、社員寮に引っ越していきました(後で聞いたら、自分たちには突然に見えても、影ではこっそり手続きを進めていたそうです)。
そんな弟のことがうらまやしくもありましたが、弟が前例をつくってくれたおかげで、「自分もその気になればこの家を出られるぞ」と思いました。弟のように突然飛び出すということまではしなくても、誰かに迷惑はかけるけれど、誰かを頼って家を出る口実をつくれば、この家から解放される、という期待が見えてきました。
大学を卒業してから親元を離れるまで、実際には数年かかっていますが、ひとり暮らしができるとわかったときには、本当にうれしかったです。不安も多少は感じましたが、それよりもやっと、この家から、この監獄から解放されるぞ、と。
ひとり暮らしをすると宣言したときも、親はやはり否定から入ってきました。しかし、出会った周りの人のおかげで、手はずをある程度整えた上での宣言だったので、親も許可することしかできませんでした。物件探しや仕事探しなどひとり暮らし後の生活のこと、こちらでしている仕事をやめる手続きなど――。そのとき、主導権は完全に自分にあり、親は黙って物件契約の書類に判を押すことぐらいしかできませんでした。
あまり勝ち・負けで判断したくはありませんが、このときばかりは、やっと親より上に行くことができた! と、うれしくなりました。
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