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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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体験談2018.2.14

■ 学校がすべてなのだろうか ■

 自分が中学生だったときに起こったこととして、このことに触れないわけにはいきません。自分と同じ中学生がいじめを苦にして自殺した、というニュースがありました。その後の会見の様子などは当時のワイドショーなどでも報じられていたので、目にしていました。会見の内容がどうとか学校がウソをついていたとか、そういうことは自分にとってはどうでもいいことで、自分が思ったのは、本当に学校に通う意味があるのか?ということでした。

 学校で何を学べるか?と言われたときに、教科の内容について学ぶことができると言われたら、自分はこれを否定するつもりはありません。教科の内容を効率よく学ぶのだったら、学校という手段を選ぶのがいちばんだとは、今でも思っています。
 他には何が学べるのか?と言われたときには、自分には疑問が浮かびます。もちろん、勉強よりも部活をしに行っていたという人もいるでしょう。自分はそれを否定するつもりもありません。打ち込めるものがあるのは何よりと思います。ただ自分には、学校の中にこれといった打ち込めるものを見出せなかった。見出すことなく、見出す方法を絶ってしまった。それならもう一度見出しに行かなければという思いにとらわれていたことも事実です。
 でも学校の中で、自分自身が傷つけられるようなことが起こっていることも、また事実です。自分ひとりが悪いように扱われたときも、親を含む誰もが自分が傷ついていることをわかってくれませんでした。自分としても自分が傷ついているんだと気づけなかったぐらいです。傷ついたり自分にとって不都合なことを乗り越えてこそ人は強くなれるんだ、とも言うかもしれませんが、強くなりたくても、自分はなれませんでした。
 学校がその人にとって危険な場所なら、それを避けるのは悪いことなのかと思いました。ニュースを聞いているうちに自殺した中学生に対して、どうして命の危険を感じるようないじめを受けていたのに、それでも学校に行き続けたんだろうと思いました。
 でも自分自身にも思い当たることがありました。学校を一度休んだなら、またそれがいじめやからかいのネタになることがあるのです。

 誰かに相談できなかったのかという疑問に対しても、すぐに自分なりに答えが出ました。相談できるまでに心を許せる人なんていなかったのでしょう。自分も今まさしくそのような感じです。自分としては真剣に相談しているつもりなのに、返ってくる答えは、そんな問題はたいしたことじゃない、と軽くあしらわれている感じで、何度も繰り返されるうちに「どうせ相談したって無駄だ」という気持ちになっていくのです。いくら相談した相手が「なんで相談してくれなかったの!」と言っても、こちらとしては「じゃあ何で真剣に相談に乗ってくれなかったの!」という気持ちでした。
 いやな思いをした場所から身を引いている自分は、まだマシなのかもしれないと思いました。同時に、同じようにいやな思いをしている場所から逃げ続けている自分がもどかしくも感じました。前者は「これからも学校に行かないこと」で後者は「学校に行くこと」で手っ取り早く解決できると気づき、結局は思考の中心に学校がある、学校にとらわれている自分でした。
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講演会2018.2.13

ラヴニールでは、講演や講座などに参加するため、活動開始時間を遅くしたり、終了時刻を早めることがあります。
ご利用される皆さまにはご不便を感じさせているかと思いますが、何とぞご了承をいただきますよう、お願いいたします。

さて本日は、午前中に、おとなりの平野区にあるクレオ大阪南にて開催された講演会「不登校と向きあうには」に、参加してまいりました。

講師は、浦上弘明さん。

自らが体験されたことを中心にすえて、各所を絶賛するわけでもなく、否定するわけでもなく、「子どもの心にあかりを照らすきっかけのひとつ」として、

自然にふれあうこと
人や活動との出会い
心癒す感動体験との出会い

をあげられていました。
 
ものすご~くエラそうなことを言うと、私、自然体験をしたらいいという時点で、「え~? 何言ってんの?」となってしまうのですが、それって、きっと、「体験した自らの言葉ではなかったから」だと思うんです。「脳や身体にこんな効果があり、心身の成長につながります」なんていわれたら、きっと拒絶反応が起こってしまったと思うのですが、こういった「誰かの体験を代弁する」とかではなく、「体験に基づいた結果、きっかけになりうるもの」だったから、ああ、なるほど、って思えたのかな、と。
 
どれも優れているというよりは、「どれがどこでその子どものきっかけとなるかはわからない」とおっしゃっていたので、「多くのきっかけづくり」という意味で。
そのきっかけを得たときに、子どもが何かを感じたときに、周囲がどう働きかけるか。

この働きかけについては難しいところもあって、でも「先回り」はしないこと。・・・恐らく、「善意の押し付け」と同じかな、と。

講演会2018.2.13_2

こんな話を聞いたことがあります。

ある、杖をついた人が電車内で立っていて、でも見ていたら困っているふうでもなかったし、席を譲らなかった。
それを友人に話したら、「なんて薄情なんだ」と言われた。

席を譲ることもいいことなのだけど、相手の人が特に望んでいる様子でもなかったら、それは善意の押し付け・・・、「俺はいいことをしたんだぞ!」「いいことをしてんのに、何でだよ!」って、譲ったほうだけの満足になってしまう、そんな話でした。

ちなみに、子どもを抱っこしていて出かけると、だいたい席を譲ろうと、声をかけて立ってくださる方がいますが、お断わりしています。確かに抱っこしている子どもは重いけど、足が椅子につく→土足で席にあがってしまうことになる、座っているといやがる、この2点が理由で、席が空いていても、抱っこのときはいつも立っています(席を譲ろうとしてくれた方にも、ちゃんと理由をお話しして、そのうえで立ち続けています)
その代わり、妊娠中は席を譲っていただくことが、とてもありがたく、そのときは座らせてもらっていました。

何か感じ、働きかけるときに、子どもと同じ目線に立てるかどうか。先回りして働きかけるのではなくて、一緒に考えていけるかどうか。それが支援である、と。

あれ? 支援って言葉こそは使っているけど、ラヴニールと同じじゃん。
支援って言葉はイヤだけど、ラヴニールでしていることも、じゃあ、支援じゃん。


人を支えていく。これが、教育の原点である。
 
と、講師の方は言っていました。
う~ん、深い! そして大変そう! だけど、やりがいがある!



最後に。
現在お子さんが学校に行けず、将来がどうしても不安だ。・・・そうおっしゃる親御さんは、まだいるんだなって。
あちこちでちらほらとお見かけしていますが、必ず出かけた先に(少なくとも)おひとりはいらっしゃるので、本当に先が分からず、不安なのだろうなと感じました。

そんなときは・・・。
「学校に行かなかった経験をもつスタッフがいる」、ラヴニールの売りは、ここです。
学校に行かなかった当時、先に不安を感じていたし、もう人生終わったと思ったけれど、でも今、生きている。そんなスタッフもいます。

不安を感じるのは、体験したことがないから。その先を知らないから。・・・と言います。
ラヴニールのスタッフも、体験したことを元に、「学校に行かなくなった先」を、自らの言葉でお話しすることができます。

ぜひ、一度見学に来てみてください!
体験談2018.2.7

■ 学校に行けるようになるなら何でもする・2 ■

 行っていた適応指導教室に、他のスタッフとはちょっとちがうなという人が数人いました。
 後で知ったのですが、週に1度か2度だけ来る、非常勤のスタッフでした。当時は非常勤という言葉の意味を知らなく、この人たちのおかげで覚えた言葉だと言っても過言ではありません。
 このうち2人の人と仲良くなりました。1人は女の人で、病院に勤めていると言っていました。もう1人は男の人で大学の先生だと言っていて、特に後者の人と仲良くなりました。病院に勤めているとか大学の先生だとか言っても、2人ともそんな感じのしない、親戚ではないんだけど友達でもない、なんとも不思議な感じの人でした。2人とも学校の話題を出さずにいてくれたし、一緒に遊んだり他愛もないことにも付き合ってくれたりしたし、よかった思い出が残っています。
 この大学の先生から、ある場所に誘われました。このとき行っていた適応指導教室と区別するために、新しく誘われた場所をB所と書きます。
 B所は自分と同じように学校に行かない人たちの集まりで、スタッフは多くが大学生。今度キャンプがあるんだけど、参加しないか?とのことでした。仲良くしている人からの誘いとはいえ迷いましたが、もしこれで自分が何らか変われるのであれば参加したいと思い、親にも知らせました。参加する前に面談があるのは適応指導教室と同じでしたが、担当した人はスーツを着ているではなく、ジーンズにセーター姿の私服。初めての場所で緊張はしたけれど、何となく楽しそうだということが伝わってきました。
 現在学校に行っていない人だけでなく、かつて行っていなかった人もいて、周りはほとんどが年上だったのですが、まずは2泊3日親元を離れられるということが、どれだけ楽しかったか。家ではできないことを楽しむことができました。特に2日目から最終日にかけての夜更かし。プログラムを見てみても予定が緻密に組まれているわけではなくて隙間だらけ。最終日の朝も出発予定のお昼ごろまでに起きてくれればいいというルーズなもの。
 合宿はときどき、それ以外のときは月に1回集まっているとのこと。どこかに出かけることもあるけれど、集まるだけでのんびり何もせずにいることもある。それだけの場所なのに、これからもB所には参加したいなと思いました。

 初対面の人ばかりの中によく行けたなと、振り返ってみて思います。どうしてB所に参加し続けたいと思ったのかは、このときにはわかりませんでした。
体験談2018.1.31

■ 母方の親戚 ■

 母には、妙なこだわりがありました。「人に言われたことはかたくなに守る」。あまりにもそれが理不尽だと文句を言うくせに、いざその指示をしてきた人を目の前にすると、その文句をぶつけることなく、普段どおりのふりをしてすごすのです。後に親戚の葬儀の席で、その親戚からはかなり理不尽なことを言われていたと聞かされました。自分としては、いまさら親戚のことをそんなふうに言うのだと、少し悲しくなりました。
 その言われていた理不尽なことが、「自分も思うように実家に帰ることができなかったんだから、あなたも実家に帰ってはいけない」でした。
 夏休みには、母、自分、弟で母方の祖父母の家に遊びに行ったことはありますが、夏休み以外に帰省した覚えはないし、父が一緒に行った覚えはありません。
 本当かどうかはわかりませんが、さらに自分が学校に行かなくなってからは、こうも言われていたようです。
「自分の子どもが学校に行かないのよ? 子育てもうまくできない人が実家に帰るだなんて、そんな権利ないに決まっているでしょ」
 こういった理不尽な理由をつけられて、様々な制約をつけられていたようでした。そして母は、それをかたくなに守っていたのです。かたくなに守っていたと言うよりは、「お前はダメなやつだ」と否定され、どうにも太刀打ちできなかったのかもしれません。

 このような状態でしたので、母方の親戚とはたまにしか会えませんでした。ただ、この「たまにしか会えない距離感」が、救いだったのも事実です。
 祖父母が遠方に住む親戚のところに泊まりがけで出かけるあいだに、母方の祖父が立ち寄ったことがありました。学校のある平日のことでした。ですが、自分は学校には行っていません。
「ヒロね、学校に行っていなくて。その代わりの場所に行っていて――」
と母が打ち明けたとき、母方の祖父からかえってきた反応は、
「そうなのか」
 このたったひとことだったそうです。
 その後遊びに来たときも、祖父は自分に、
「ま、じいちゃんも、大人になってから高校に行ったぐらいだしな。昼間働いて、そのあと学校に行った」
「そうなの?」
「じいちゃんたちのときは、戦争中でまともに勉強できんかったからな。だから大人になって働きながら、夜になって高校に行くって人も案外いた。ヒロも、今は勉強できなくても、そのうちちゃんと勉強できるようになるぞ」
 ちょっと筋がそれたような気はしましたが、母が打ち明けたときの第一声、「そうなのか」は、自分には、「へえ、それで? だからどうした?」と言われたように感じられました。学校に行っていないことで「そりゃ大変だ!」と大騒ぎされず、学校に行っていようがいなかろうが、ヒロはヒロだろ? と言ってもらえた気がして。

 二人とも成人してからですが、母方の祖父のところには、母なしで、弟と一緒に遊びに行ったことがあります。弟と二人でも案外何とかなるとわかってから、何度も行かせてもらいました。そのぐらい、自分たちきょうだいにとって、母方の祖父との距離感はちょうどいいものだったんだと思います。
ラヴニールの代表である私は、現在子育て真っ最中でもあります。日々成長する我が子とのかかわりの中で、「そっか、こういうことなんだ」と、すっと腑に落ちたというか、そんな経験がありました。

フリースクールに関わる私たちだけではなく、様々な支援的なかかわりをしている者同士、「信じて待つ」ということで時には議論になることがあります。

いつまでも待っているだけじゃなくて、何かアプローチをしていかないと、いつまでも状況は変わらないんじゃないか。
こちらが何かするのは、相手をそれだけ信頼していないってことになるんじゃないか。

どれだけ「信じる」べきか。
どのぐらい「待つ」べきか。

時に極端に「する・しない」の対立が起こり、選択肢が2択しかない、そんな状況が生じることもあります。



さて、「すっと腑に落ちた」話の本題。

先日、子どもが洗たくカゴの中におもちゃを落としました。洗たくカゴの高さは、子どもの腰よりも少し高いぐらい。手を伸ばしておもちゃを取ろうとするも、届きません。
 
私は、さて、ここでどうするんだろう? って、ほぼ興味本位で、我が子を観察することにしました。同時に、我が子の次の行動を想像してみました。
私の頭には私か夫を呼ぶか、一生懸命取ろうとしてる姿をアピールして「取って♪」の、どちらかかな、と思っていました。
 
すると、我が子は。
 
まず洗たくカゴを倒し、カゴの中にあった洗たくネットをよけて、落としたおもちゃ以外はすっかりからっぽになったカゴの中に体ごともぐるように手を伸ばし、見事におもちゃゲット。
思わず、
「うわ~、頭いい!」
と言ってしまいました。

私は、「我が子は誰かに頼る」ことしか考えていませんでした。それを欺くかのように、我が子は自分ひとりでおもちゃを拾って見せた。本当に、見事に裏切られた感じです。
 
そのときふと、思いました。

もしかして我が子は、私が思っている以上にいろいろできるのかもしれない。
もちろん、「我が子が自分でできるように」と何もかもほったらかしにしておけ、というわけじゃなくて、我が子から何かしら要求があればそれに応えるのも大事だと思います(今回も助けを求めるようであれば、おもちゃを拾うつもりでした)。
 
一方で、「どうせこの子にはできないだろうから」と、何もかも手を出しすぎていやしないか、とも思いました。 
感じたことをうまく文章として表現するのは難しいですが、「信じて待つ」って、もしかして、今あったできごとみたいなことなのではないか、と。そしてその結果が自分の思っていたのとは異なっても尊重することなのではないか、と。

(「尊重してはいけない考えや行動」もあるかとは思いますが(たとえば犯罪性のあるものなど)、ここでは度外視します)


「信じて待つ」のは、言葉以上にもっと深いものがあるとは思いますが、その一端を、頭ではなく体で理解できたような気がしました。


子どもから学ぶ。本当にそうだな、と。
頭でのみ理解した「つもりになっていた」ことが、つながったように思いました。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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