フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
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内閣府の統計で、18才までの自殺について取り上げられていて、その日が、1年のうちで9月1日がもっとも多いことがわかったそうです。
9月1日というと、最近では一律にこの日というわけではないけれど、2学期が始まるその日に自殺が多いこと。また、他の時期として、4月上旬~中旬ぐらいだったり、5月の同時期にも、少し多い時期があるらしい。
出典:
http://opi-rina.chunichi.co.jp/topic/20150819-1.html
なんとなく感覚として感じてはいたけれど、こうして統計に出たことで、ああ、やっぱりそうだったのか。というふうに思った。
感覚でなく、目でみて考えられるよう数値化・グラフ化されたこと。まずは第一歩ではないでしょうか。
そのうえで、さて、どうするか。
今、twitter上では、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグで、学校に行くのがつらいなら・・・、ということで多くの人がつぶやいている中、こんなメールをいただいた。本人に掲載許可をいただいたので、個人名は伏せたうえでこちらに掲載します。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
件名 : ボクの中の違和感
○○さん(編集者註:スタッフの名前)は、今、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグがあることを、ご存知ですか?
これは、ボクが思うにですが、9月1日ごろに自殺する18歳までの子どもが多いという統計が出たことを受けての、「もし学校がつらいなら行かなくていい」という主旨のものです。
このハッシュタグを立ち上げた方、もし主旨が違っていたら、ごめんなさい。
ボクも、このハッシュタグに並ぶツイートを拝見したのですが、ボクの気もちがおかしいのでしょうか。ボクは違和感以外の何ものも感じなかったんですね。
ボク自身、学校には行きたくないと思ったけれど、何とか行っていた、という過去があります。
ここからのことは、我慢して行っていたボクを美化するわけでもなく、また、今現在死にたいと言っている人に対して「じゃあ死ねば」と言っているわけでもないことを、あらかじめご了承ください。
ボクが学校に行き渋りをしだしたころ、この事実を知った親戚中が日替わりでやってきました。
「学校に行きなさい」
言われたのはこればかり。
「学校に行かないと、将来困るよ」
「お母さんを困らせてどうするの」
「一緒に行ってあげるよ」
ボクは学校に行きたくないんだとわかった最初のころ、親戚にこのようなことを言われました。
そのとき思ったことは、
「放っておいてくれよ!」
でした。
今でこそ、学校に行かない道をたくさん知る機会がありますが、ボクのときはまだそんなになかったので、学校に行くことだけが道だと思っていました。それなのに学校に行けない自分、でも学校には行かなきゃと思う自分。そのあいだで揺れて、どうしようもなかった。今ではそう言えます。
放っておいてくれよ!と思ったのと同時にもうひとつ思ったのは、
「それで解決しているならとっくにお願いしているよ!」
という気もちでした。
一緒に行ってもらって学校に行けるようになるのであれば、ボクは喜んで親戚にお願いをしていたでしょう。
でもお願いを拒んでいたのは、ボク自身気もちの整理がどうにもつかなくて、この先どうしたらいいんだろう。ボクは絶対にみんなを困らせているに違いない。第一ここに来るまでに交通費をかけさせているし、という不安な気もちにもなりました。
それをあおるように、将来困るとか親を困らせているとか言われても、どうしようもなかったのです。
ボクは何がきっかけだったか忘れましたが、行きたくないと明確に思い始めて2週間後ぐらいに、また学校に行きだし、そのまま何とか卒業まで通いました。時々休みはしましたけど。
それでも、今でも学校に行きたくないと思ったときの葛藤ははっきりと覚えています。
今、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグのついたツイートを見て、ボクが感じるのは、このときと同じ感覚です。
「学校行かなくていいよ」と言われても、ボクの中にいる昔のボクは、「放っておいてくれ!」と言っています。
周りが、ある特定の人のためだと思って親切にしているのかもしれませんが、ボクの中の昔のボクはそんな気もちを踏みにじって、「うるさい、黙れ!」と言っています。
だからといって、死のうとしている人のことを無視するのか?というとそういうわけではないのですが、そうやってみんなで親切だと思っていることをすることも、一人の人を追い詰める行為になるかもしれない、とボクは思えてしまい、なかなか「死んじゃだめだよ」とは言えません。
「死んだらだめ」
「学校行かなくていい」
と言うだけなら簡単です。言うだけじゃない、もっと中の本質的なものを見ないといけない気がするんです。
じゃあ、その本質的なものを見るにはどうしたらいいんだよ、と言われても、ボクも困ってしまうのですが。
とりあえず、ボクの中にある違和感として、こんな気もちをもつ人もいるんだよということで、お知らせしました。
○○さんは、どう思われますか?
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
確かにこの人が言うように、「死んじゃダメ!」と言ったり、「じゃあ、学校行かなくていいんだよ」と言うのは簡単だけれど、そうだとわかっていてもそれが残念ながら届かない、受け入れられないほど追い詰められている、ということも考えられるのでは、とも思いました。
もちろん、私も自殺するな! 生きていれば楽しいことがある! というタチです。
ですが、こう聞かれたとき、どう答えられるか?
「じゃあ、何で死んだらいけない?」
「今苦しいのに、楽しいことなんて考えられない。楽しいことがあるという保障はあるのか?」
うわべだけで言うのは簡単です。だけど、それだけで本当にいいのか?
じゃあ、どうすればいいのか?
葛藤はいつまでも続きそうです。
9月1日というと、最近では一律にこの日というわけではないけれど、2学期が始まるその日に自殺が多いこと。また、他の時期として、4月上旬~中旬ぐらいだったり、5月の同時期にも、少し多い時期があるらしい。
出典:
http://opi-rina.chunichi.co.jp/topic/20150819-1.html
なんとなく感覚として感じてはいたけれど、こうして統計に出たことで、ああ、やっぱりそうだったのか。というふうに思った。
感覚でなく、目でみて考えられるよう数値化・グラフ化されたこと。まずは第一歩ではないでしょうか。
そのうえで、さて、どうするか。
今、twitter上では、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグで、学校に行くのがつらいなら・・・、ということで多くの人がつぶやいている中、こんなメールをいただいた。本人に掲載許可をいただいたので、個人名は伏せたうえでこちらに掲載します。
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件名 : ボクの中の違和感
○○さん(編集者註:スタッフの名前)は、今、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグがあることを、ご存知ですか?
これは、ボクが思うにですが、9月1日ごろに自殺する18歳までの子どもが多いという統計が出たことを受けての、「もし学校がつらいなら行かなくていい」という主旨のものです。
このハッシュタグを立ち上げた方、もし主旨が違っていたら、ごめんなさい。
ボクも、このハッシュタグに並ぶツイートを拝見したのですが、ボクの気もちがおかしいのでしょうか。ボクは違和感以外の何ものも感じなかったんですね。
ボク自身、学校には行きたくないと思ったけれど、何とか行っていた、という過去があります。
ここからのことは、我慢して行っていたボクを美化するわけでもなく、また、今現在死にたいと言っている人に対して「じゃあ死ねば」と言っているわけでもないことを、あらかじめご了承ください。
ボクが学校に行き渋りをしだしたころ、この事実を知った親戚中が日替わりでやってきました。
「学校に行きなさい」
言われたのはこればかり。
「学校に行かないと、将来困るよ」
「お母さんを困らせてどうするの」
「一緒に行ってあげるよ」
ボクは学校に行きたくないんだとわかった最初のころ、親戚にこのようなことを言われました。
そのとき思ったことは、
「放っておいてくれよ!」
でした。
今でこそ、学校に行かない道をたくさん知る機会がありますが、ボクのときはまだそんなになかったので、学校に行くことだけが道だと思っていました。それなのに学校に行けない自分、でも学校には行かなきゃと思う自分。そのあいだで揺れて、どうしようもなかった。今ではそう言えます。
放っておいてくれよ!と思ったのと同時にもうひとつ思ったのは、
「それで解決しているならとっくにお願いしているよ!」
という気もちでした。
一緒に行ってもらって学校に行けるようになるのであれば、ボクは喜んで親戚にお願いをしていたでしょう。
でもお願いを拒んでいたのは、ボク自身気もちの整理がどうにもつかなくて、この先どうしたらいいんだろう。ボクは絶対にみんなを困らせているに違いない。第一ここに来るまでに交通費をかけさせているし、という不安な気もちにもなりました。
それをあおるように、将来困るとか親を困らせているとか言われても、どうしようもなかったのです。
ボクは何がきっかけだったか忘れましたが、行きたくないと明確に思い始めて2週間後ぐらいに、また学校に行きだし、そのまま何とか卒業まで通いました。時々休みはしましたけど。
それでも、今でも学校に行きたくないと思ったときの葛藤ははっきりと覚えています。
今、「学校が始まってしまうけど」というハッシュタグのついたツイートを見て、ボクが感じるのは、このときと同じ感覚です。
「学校行かなくていいよ」と言われても、ボクの中にいる昔のボクは、「放っておいてくれ!」と言っています。
周りが、ある特定の人のためだと思って親切にしているのかもしれませんが、ボクの中の昔のボクはそんな気もちを踏みにじって、「うるさい、黙れ!」と言っています。
だからといって、死のうとしている人のことを無視するのか?というとそういうわけではないのですが、そうやってみんなで親切だと思っていることをすることも、一人の人を追い詰める行為になるかもしれない、とボクは思えてしまい、なかなか「死んじゃだめだよ」とは言えません。
「死んだらだめ」
「学校行かなくていい」
と言うだけなら簡単です。言うだけじゃない、もっと中の本質的なものを見ないといけない気がするんです。
じゃあ、その本質的なものを見るにはどうしたらいいんだよ、と言われても、ボクも困ってしまうのですが。
とりあえず、ボクの中にある違和感として、こんな気もちをもつ人もいるんだよということで、お知らせしました。
○○さんは、どう思われますか?
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
確かにこの人が言うように、「死んじゃダメ!」と言ったり、「じゃあ、学校行かなくていいんだよ」と言うのは簡単だけれど、そうだとわかっていてもそれが残念ながら届かない、受け入れられないほど追い詰められている、ということも考えられるのでは、とも思いました。
もちろん、私も自殺するな! 生きていれば楽しいことがある! というタチです。
ですが、こう聞かれたとき、どう答えられるか?
「じゃあ、何で死んだらいけない?」
「今苦しいのに、楽しいことなんて考えられない。楽しいことがあるという保障はあるのか?」
うわべだけで言うのは簡単です。だけど、それだけで本当にいいのか?
じゃあ、どうすればいいのか?
葛藤はいつまでも続きそうです。
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プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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