フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
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ご報告が遅れましたが・・・
今年度、フリースクール「ラヴニール」は、ニッセイ財団より助成をいただきました! 一連の報告が終了してからの投稿となったのは、何かの不備で備品が購入できなかった! などの事態が、起こるとも起こらないとも・・・、ええ、ビビリなんですよ、わたしゃこう見えて。
と、代表がほざいておりますが、いただいた助成金により、主に教材、楽器の購入をすることができました!
教材を含めて購入した備品はこれだけではなく、まだまだたくさん! 全部掲載したら、画像だけで膨大になってしまうので、一部抜粋しての掲載が、くやしい・・・。
特に教材に関しては、現在のカリキュラムに沿ったものを買えたことが、本当に大きい!
(今までは、他フリースクールさんからいただいた、少々古いものだったんです・・・)
画像のオレンジ・水色・みどり、赤のものは中学生向けの教材(問題集)です。要点がよくまとめられているので、もう一度学びなおすのにも使えちゃうもの。どうやら塾などで人気の教材?だそうです(知らなかった!)
要点を見ながら問題を解いてみましたが、確かにわかりやすい! 自学自習にうってつけの教材となっております。
あらためまして、助成いただいたニッセイ財団関係者の皆さまに、深く御礼申し上げます。
今年度、フリースクール「ラヴニール」は、ニッセイ財団より助成をいただきました! 一連の報告が終了してからの投稿となったのは、何かの不備で備品が購入できなかった! などの事態が、起こるとも起こらないとも・・・、ええ、ビビリなんですよ、わたしゃこう見えて。
と、代表がほざいておりますが、いただいた助成金により、主に教材、楽器の購入をすることができました!
教材を含めて購入した備品はこれだけではなく、まだまだたくさん! 全部掲載したら、画像だけで膨大になってしまうので、一部抜粋しての掲載が、くやしい・・・。
特に教材に関しては、現在のカリキュラムに沿ったものを買えたことが、本当に大きい!
(今までは、他フリースクールさんからいただいた、少々古いものだったんです・・・)
画像のオレンジ・水色・みどり、赤のものは中学生向けの教材(問題集)です。要点がよくまとめられているので、もう一度学びなおすのにも使えちゃうもの。どうやら塾などで人気の教材?だそうです(知らなかった!)
要点を見ながら問題を解いてみましたが、確かにわかりやすい! 自学自習にうってつけの教材となっております。
あらためまして、助成いただいたニッセイ財団関係者の皆さまに、深く御礼申し上げます。
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■ NOと言えなかった、いい子な自分 ■
自分は担任だけでなく、いつも親や周囲の顔色も気にする子どもでした。学校に行ったなら担任の機嫌を損ねないように、忘れ物がないように支度をしなければいけないし、当然宿題も忘れないようにしなければいけない。漢字の小テストでもいい点を取らなければならない(実際クラス全体で平均点が悪いと、宿題量が増やされたため)。
学校の宿題も、特に算数の宿題については、自分で答え合わせをする前に母の採点がありました。母の採点時点でまちがっていた箇所は、母と1対1になってわかるまで解かされ、その後自分で採点をすると、いつも満点か満点近い得点。ですが何のうれしさも感じませんでした。自分の実力で解いたのではないのですから。また、母の採点を経てもまちがえていたり、逆に母の解答がまちがっていることもあったりしましたが、それについて指摘すると、
「まちがいに気づかないのがいけないんじゃないの」
と、母自身のまちがいを棚にあげて、責められるのは自分。
なかなか問題を解けないときでも、
「早くしてくれない? 夕飯がどんどん遅くなっちゃう」
と、やっぱり責められるのは自分。添削してもらわずに直接答えあわせをすればいいじゃないか、とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんが、自分で答えあわせをすることは、何度も確かめ算をする以外には、不可能でした。答えの部分はあらかじめ切り離してあって手元になかったし、
「解き終わったら見せなさい」
と口酸っぱく言われては、見せないわけにはいきませんでした。
模擬試験のようなものを受けたときに、どうしても自分で解いたものを出したいと言って母の採点を経ずに郵送してもらったら、その点数がかなり悪かったことがありました。
「ほら見なさい、どうせ自分でやっただけじゃ低い点数しか取れないんだから」
母からそう言われても、自分としてはうれしかったです。母が解いた問題ではなく、自分で解いた結果だったのですから。偽者の自分の実力ではなく、本当の自分の実力がわかったことがうれしかったのです。
それでも、母は宿題を自分で採点する前に採点することをやめませんでした。自分の実力ではないし、母のまちがいまで自分のせいにされるし、それなら思いきってNOと言えばよかったのではないか、と思われるかもしれませんが、自分がNOと言うことで親や相手が機嫌を悪くするのではないかと思うと、言い出せませんでした。言われたことに従うことは、親や他人のため。言うことを聞いていれば何事も問題にならないのだから、自分にとって不都合なことでも自分が我慢すればいいだけのことだと。犠牲になるのは自分だけですむんだと。
いやだと言うだけでなく、ちゃんと理由をつけて言い返す自信もあったはずです。
それでも言い返そうとしなかったのは、
「いい?これはあんたのためなんだからね。成績がよければいいほど、あんたにとっていいに決まっているんだから」
たとえ学力が自分の実力ではないとしても、親は自分のためを思ってしてくれている。そう思ったら反論なんてできませんでした。
昔から、自分の意思を言えたことがないと、振り返ってみて思います。言い返したいと思うだけ思って、それを言葉という形にして吐き出せたことがないなぁと。
体調を本当に崩してしまい、朝、登校前に吐き下したときも、
「行くか行かないかは自分で考えなさい。そのぐらいできるでしょ」
とは言われるものの、ウラまで勘ぐってしまい、
「この人は自分が学校を休むと言うと、『1回吐き下したぐらいで休むの?』と言うにちがいない」
「『そんなの自分がどんどん悪い方向に考えるから具合が悪いと思うだけで、本当はそんな大げさなことじゃないんでしょ?』って言われるに決まってる」
とまで考えて、休むと言い出せなかったことがあります。この年齢に至るまでに、選択肢を提示されて自分が思うほうを答えても、結局は親が思ったものに誘導されるなどしてきたために、相手の顔色を伺って、どんな答えを求めているのかを必要以上に考えてしまったり、自分の答えに自信がもてなくていちいち尋ねたりしていました。
■ 学校に行けなくなる病気 ■
学校に行きたくないと思う自分を認めたくなかったのには、ある日、父から言われたことが関係している気がします。
「学校に行こうとすると、玄関で立てなくなったり、体調が悪くなったりする、『登校拒否』という病気がある」
父はこんな病気のことを教えてくれました。明確に登校拒否という言葉を使ったことも覚えています。
自分は学校に行きたくないと思うことはあっても、学校に行けている。玄関で立てなくなったり、体調が悪くなったりすることもない。憂鬱な気持ちだけ何とか押さえて学校に行きさえすれば、1日何とかなってる。だから自分は病気じゃない。そう言い聞かせながら学校に行っていたことを覚えています。同じ小学校内に弟もいて一緒に通学していたことから、何も理由なしに休めないと気を張っていた部分もあるかもしれません。
簡単に言ってしまえば
「子どもが学校に行くのは当たり前」
「当たり前である場所に行けないのはおかしい」
だったのです。自分にとって登校拒否(不登校)は、自分とは無関係で別世界のこと、関係のないことだと思っていました。たとえ病気だと言い訳が成り立っても、学校に行けなくなること自体おかしいと思っていたのです。もちろん今では学校に行けなくなるのは病気だとは思っていませんし、何かのきっかけで誰にもありうることだと思っています。
このような調子だったので、本当は学校に行きたくないと言うと、病気でもないのに自分を病気扱いすること、学校という当たり前の場所にも行けない悪い子だと認めてしまうことになるようで、登校拒否という病気があると教えてくれた父にも、本当の気持ちを言い出せませんでした。
■ 何かがちがう ■
これはたぶん誰にも言ったことがないのですが、下校途中に自宅まで追いかけられたことがあります。自分が交差点で立ち止まり、一旦曲がるふりをして急に直進しだすと、追いかけてきた側も交差点を曲がったにもかかわらず急に向きを変えてこちらにやってきたので、たぶん間違いないと思います。幸い自宅がすぐ近くだったのであわてて駆け込み、鍵をかけました。
そのとき自宅にいた母は、何事かと尋ねてきて、
「今、変な人に追いかけられた」
とは言ったかと思います。
そのころから自宅付近では、顔が見えないように伏せがちに歩く人の姿が目につくようになりました。見知らぬ人に追いかけられた経験があるので、見ず知らずの人を怪しいと感じる警戒心はかなり強かったと思います。
その人が、毎週定期的にやってくる移動販売のパンを買っていました。自分もそのパン屋は利用していて、母といつも一緒に買っていました。
「ね? ほら、なんともないでしょ?」
その怪しい人を見て、何ともないから安心しなさい。と、続いたかもしれませんが、何の解決にもなっていないなと、もやもやする気持ちだけが残りました。
まず、先日後を追いかけられた人と、この明らかに様子が怪しい人とは、容姿がまったくちがいます。先日追いかけられた人は紺色の作業服。背はそんなに高くはないけど、速足で歩く人でした。この怪しい人は、いつも姿を見かけるたびに同じ服装。でも作業服ではない。背中を丸めているからかもしれませんが、背は低く、歩く速度は特に速くも遅くもないぐらい。
母には容姿がどんな感じだったかを何も言っていなかったので、母はまったくちがう人を見て、自分に安心しろと言ったのです。
これならわかりやすい「何かがちがう」ですが、もうひとつ、「こっちは本当に怖かったのに、怖かった気持ちをものすごく軽く扱われている」気がしたのです。怖い思いをさせた相手と対峙させて襲ってこないから大丈夫――、そんなわけありません。言葉にはしなくても、怖い思いをしたんだということに気づいてほしかったのです。
表の部分だけを解決して、内側の部分を見てくれない――。前に担任だったある先生が、こんなたとえをしていました。
「海の上に小さな氷の塊が見えて、それをただの小さな塊だと思って近づいたら、船の底が大きく傷ついて沈没した。海の上には小さくしか見えていなくても、中には大きい塊があるかもしれない。こういう状態を、氷山の一角、と言います」
氷山の一角とは少しちがうかもしれないけれど、自分はこの氷山の見えない部分も気づいてほしくて、まずは些細なことから母親に言うようになりました。クラスメイトが今日も忘れ物をしたこと、体育で跳び箱が飛べなかったこと――。
「○○さん、ドジなんだよ、きっと」
「それは仕方ないよ、お父さんとお母さんの子だもん」
母はいつも笑って返してきましたが、自分が求めていたのはこんな答えじゃなくて、その結果起こる担任からの罵倒が嫌だったのです。
誰かが忘れ物をすると、その責任は学級委員の自分に来るんだよ。
跳び箱が飛べないと、みんなの前で飛べない姿を晒さなきゃいけなくて、恥ずかしいんだよ。
母が笑って返すひとことで、本当はもっと話を聞いてほしいのに、この人に話したって何の解決にもならないな、と思うことが、どんどん増えていきました。些細なことでこのような感じなのですから、本当に話したいことなんて話せるわけがありません。
自分が学校に行きたくないという気持ちも、母には言い出せないままでした。
■ 行きたくないと何度も感じるのに、それでも ■
小学生になり、雪の多い地域でしたので冬になると通うのは大変でしたが、6年間大病をすることなく通いました。一方で、大きかれ小さかれ、何かの問題を起こしていました。問題を起こすといっても軽微であったり巻き込まれたものもありますが、ここでは小学校高学年のころについて書きます。
小学校5年の担任が、当時で30歳台前半という年齢の割には体育会系の古いタイプでした。男勝りな女の先生でしたが、言葉遣いも荒く、音楽のパートを男女別にする、子ども同士の揉めごとの際には片方だけの言い分を一方的に聞いて、もう一方には弁明の機会を与えずに問い詰める、脅して押さえつけるやり方、など。
小学校に入っても運動神経の鈍かった自分は、再び格好のターゲットとなってしまいます。跳び箱が飛べないと、みんなの前での個別指導。がんばれ!という声が、どれだけ恥ずかしかったか。縄跳びが飛べないと、
「ふざけるのもいい加減にしろ」
こちらだってふざけて早くひっかかっているわけじゃありません。算数の問題が解けなかったり、自分の想定とはずれた答えをする子には、
「何度も言っているだろ!お前は脳みそが腐ってるのか?」
「お前の答えはおかしい。そんな解き方はこの世の中にはない」
といった個人を否定する言葉がどんどん飛び出る人でした。後で知ったことですが、これでもある教科の指導にはそこそこ定評があったようで、ある報告会の発表者にこの教師の名前を見つけ、配布された資料が掲載されていたので見てみましたが、あいつがこんなえらそうなことを言う立場にいるのか?と気持ち悪くなったことを覚えています。
そのようなピリピリした空気の中で学級委員になってしまいました。運動神経は悪かったけれど勉強がそこそこはできていたのと、1クラスあたりの児童の人数が少なく、誰かしらが何かの役につかないといけない状態でした。学級委員になったのは小学5年の後期でしたから、もっともタイミングが悪い時期でした。このころは次の学年に向けて、学校全体のリーダーとしての自覚を否応にも植えつけられるからです。ですので、何かにつけて
「それでこの学校の最高学年になるつもりなのか!」
と怒鳴られました。担任にとって何か都合の悪いことが起こると、それもすべて学級委員の責任。「忘れ物が多いとはどういうことだ!学級委員!」
「そう言われても自分にもわかりません」
と言えればよかったのですが、そこまで言う勇気などありません。教師の言うことは絶対という空気、教室中には不穏な空気が漂い、渋々学級委員が前に出て忘れ物をした子どもに反省を促し、ではどうすれば忘れ物がなくなるかを話し合います。話し合ったところで結局は個人が気をつけるという結果に落ち着くのですが、それが担任の意に沿わなければ1時間目の授業をつぶしてでも反省会は継続される。忘れ物をした子どもだけでなく、たとえ忘れ物をしていなくても学級委員も同じように責められ続けるのです。そして1時間目が終わると、
「ほら見ろ、お前らのせいでせっかくの1時間目がつぶれた」
と、どこまでも子どもに責任を転嫁し責め続けられました。
問われたことに対して、相手にとって最適な答えとなるように、逆上させないように、火に油を注がないように答えるために、常に担任の顔色を伺っていました。言葉だけでなく、態度だけでなく、表情だけでなく、もう体中から怒りのオーラをばらまくような人でしたから。
この担任は前任校でも高学年を受けもっていたことが自慢でした。いつも
「前の学校では5年生や6年生はこんなにみっともない子はいなかった」
が口癖でした。高学年に慣れていることと正しい指導ができるかどうかは別物であると理解したのは、このころでした。
気がついたら、何度となく保健室に足を運んでいました。特に理由があったわけではないんですが、「自分は具合が悪いんだ」と頭で一生懸命思い込んで、1日の中で1回は、休み時間に保健室に行き、熱をはかっていました。でも数字上は平熱、休むなどの措置はなく、何もなく教室に戻されました。
今思うと、クラスの中にいることがつらく感じ始めていたのかもしれません。小学校は基本的に全部の教科を一人の教師が教えるため、出張や休みなどでない限り、1日の中で必ず担任の顔を見るわけです。その当時は自覚していなかったけど、何となく学校に行くのがいやだな、という感じがあったのかもしれません。
自分にとって小学校、特に高学年に入ってからは、幼稚園のときのように自分を肯定されることなく、常に評価のまなざしに晒され、担任の顔色をうかがう過剰な気づかいの場だったのではないかと振り返るのです。そうして学校に行きたくないと思いながらも、学校に行きたくないと思う自分を認めたくない部分がありました。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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