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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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体験談2017.11.1


■ 学校に行かなくなる・2 ■ 

 そうこうしているうちに、初めてのテストの時期を迎えました。まだ習った範囲も少なく、どう勉強したらいいのかもわかっていなくて、テストの点数は小学校のころに比べると低いものでした。小学校のころのテストは単元ごとだったし、特に難しいとは思ったことがないのだけど、中学に入るとさすがにそうもいかないんだな、と痛感したテストでもありました。
 それでも学年順位では真ん中より少し上。どう勉強したらいいかわからなかったにしては、この数字は妥当だと思えたので、自分としては何も悪びれることなく、親に個表を見せました。この個表には、各教科のテストでの点数が記入されています。
 それを受け取った母は、一瞬にして表情を変えました。
「何?この点数は」
 個表をテーブル上に置き、点数が記入された部分を指で叩いて指摘する母。何も答えられずにいると、
「何でこんな点数しか取れないの?順位も真ん中だし」
 どうして順位が真ん中であることがいけないのだろうと思って、何も言えないままでいると、
「高校は、成績がよくないと行けないところなの。わかってる?」
 今となっては
「よくもそんなでたらめを」
と言えるのですが、当時の自分は何もわかっていないこともあって、反論できる要素がありません。
 次のテストのときには自分なりに勉強しました。勉強のあいだの息抜きに読んでいたマンガは、親に見つかって取り上げられました。休憩もとらずに勉強漬けになることを親は望んでいるんだと思って、さらに勉強しました。
 期末テストは科目数も多かったので、科目ごとの点数自体はアップしなかったのですが、順位は大幅アップ。それでもやっと上位に食い込めたぐらい。
「○○高校に行くには、学年1位の成績でないと無理」
と、気づけばトップクラスの成績を目標として設定され、今回これだけがんばってもやっと上位に食い込めるぐらいの成績でしかないのかという絶望と、それならば高校というところはどれだけ果てしなく高い目標なのだろうと、これまた絶望とで、果たして自分はこの先やっていけるのだろうかと、1学期にして早くも不安になりました(後述の余談1)
 学校では明るく振る舞い、家では親の理想にかなうように勉強する。でも理想には応じきれていない、ダメな自分。何だか疲れてきました。
 すぐに夏休みに入り、まずは宿題の量の多さに圧倒され、夏休みが終わっても残っている状態。決められたこともできない自分の評価は、どんどん下がっていくのではないかと想定されました。評価が下がったなら、たとえテストなどの点数がよくても総合的な評価は下がる。本来通知表で5をもらえる成績だったとしても、宿題ができていなかったことで4に下がる。宿題ができていなかったのは複数教科だったので、何教科も評価が下がる。それでもし高校進学に影響が出たら。
 増して自分は、すでにクラス内でトラブルを起こしていて、担任に迷惑をかけています。
「あんたはすでに先生に迷惑をかけているんだから、そのマイナス分を取り返すだけの勉強は必要なんだから」
 高校進学の際にはこういった生活態度もマイナス評価になると、母からは口酸っぱく言われていました(後述の余談2)
「ねえねえ、内申いくつだった?」
 通知表そのものを見せ合うことはしなかったけど、1学期終業式の日、クラスの中ではこのような会話がやりとりされていました。そもそも内申点というのが何かよくわかっていなくて、どうも会話を聞いていると、9教科の評定の合計値であることがわかってきました。たまたま近い席にいた子は、30ちょっと。自分もせめてそのぐらいはあるだろうなと思って、あとでこっそり合計してみたら、一歩届かない、29。後でよく考えたら、オール3だったとして27なのですから、ごくごく真ん中ちょっと上ぐらいという数字。けれど周囲の子がそろいもそろって30をこえていることから、30に届かなかった自分が劣っているように感じられました。

 もともと低い評価がさらに下がるだろうと考えられるのと同時に、トップには程遠い成績で、もし高校に行けないとわかったら、親は絶望するだろうことが想像されました。自分がもっとがんばれば高校に行けるはずです。しかし、これ以上がんばることはもうできません。

 夏休みがあけて2学期。数日行っただけで、ついに学校を休むようになりました。

余談1:
 実は文中に出てくる○○高校というのは、トップクラスでないと進学できない難関校ではなく、ごくごく真ん中の成績でも進学できるぐらいの高校でした。という事実は中学3年のときにわかる事実で、それまではずっとトップクラスの高校だと思い込まされていました。本文にもあるように、1年1学期の内申点は29。その当時の成績を維持できたなら、余裕で進学できる高校でした。

余談2:
 この生活態度についても、果たして本当にマイナス評価となったのかどうかは、疑問です。実際にマイナス評価となるのかもしれませんが、担任に本当に言われていたのか、学校内でもそういった評価をしているのかは確認していません。親からは常にこういった否定的な圧力をかけられていたと捉えていただけたらと思います。
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体験談2017.10.25


■ 学校に行かなくなる・1 ■

 大型連休が終わってすぐ、どうしても学校に行きたくないと訴えて1日だけ休ませてもらいました。母が担任宛てに「今日は休みます」と連絡をすると、
「いじめられていたんじゃないですか?」
 担任が母に尋ねたようです。自分ではあの程度ではいじめだとは思っていませんでしたが、なんだ気づいていたのか、と思いました。担任は朝と帰りに顔を合わせる以外は、週あたりにすると授業数の少ない教科担任で顔を合わせる時間はないと思っていたのですが、見ているところはちゃんと見ているんだなと思いました。
 次の日には登校するのですが、帰りに自分と特定の何人かが残るよう指示されました。
 別室に自分を含めた数人だけになったと担任が確認すると、教室の入り口・出口のドアを閉めて、
「よし、誰もいなくなったな。みんなから、ヒロのことを教えてやってほしい」
と、いわば集中砲火。担任に言われるままに、自分以外の何人かが、自分のありもしないことを言う。
「それじゃあ、ヒロがどうなったらみんなと仲良くできると思う?」
 次には
「もっと明るくなればいい」
とか
「もっと人と話せばいい」とか。具体的な意見ではあるけれど、ちょっと考えてみたらずいぶんと奇妙だとも思いました。見ず知らずの相手がいきなり明るく接してきたら、どう思う?自分だったら圧倒されて
「え?何この人?」
って退いてしまうと思うのですが。
 後で振り返ってみると、結局自分がすべて悪かったかのような片づき方でした。担任という監視があったことで何も言えないことに加え、集中砲火の状況から逃げ出すこともできませんでした。逃げ出せるものなら逃げ出したかったです。
 自分を肯定されることなく、否定されるだけの日々がよみがえってきたように感じられました。自分の意見を言わせてもらえず、一方的にできないと認定された、小さいころの日々。

 そんな状況に追いやられた自分だったけれど、次の日からは努めて明るく振る舞うようにしました。新しくまたやり直せばいいと思って明るく振る舞いました。明るい自分を一生懸命つくりました。
ラヴニールの新しいホームページ、もう、見ていただけましたか?
まだだよ! という方。ぜひぜひ、見てみてください。

フリースクール、サポート校、るぱっせ、それぞれがきれいに分かれて、見やすく整理されたかなぁと思います。
2つ、もしくは3つとも関係しているものは、「フリースクール」に集約されています(例、月の予定とか)

さて、ラヴニール、というか、これは代表のこだわりなのですが、ラヴニールのホームページ上では、ある文言を使っていません。
いや、使っている部分もあるし、使わざるを得ない場所では使うので、完全に「使っていません」とは言い切れませんが、可能なかぎり使わないようにしている言葉があります。

本音を言うとあまりイコールであるととらえられたくないのですが、「フリースクール」というと、だいたいセットになる言葉。

不登校 です。

簡単に言うと、「学校に行けていない状態」のこと、とでも言いましょうか。
確かに学校に行けていない状態のことを表すにはもってこいの言葉ではあると思うのですが、それでもこだわって使わないようにしています。

「不」は、それ1字だと、否定・打消しの意味を持つ字です。中学校で漢文の授業でやりませんでした? わかりやすいところだと、地名などとしても残っています。「親知ら」(親不知)だったり、「しらい・しらひ(不知火)だったり。

不登校は、そうすると、「登校」を打ち消し・否定することから、「登校せず」といったところでしょうか。

が、どうも、この言葉、しっくりしない。

というのは、ここから先感覚の話になってしまいますが、登校できないことを、ものすごく否定的にとらえられている気がするのです。学校に行くことが大前提になっている今の日本の中で、この不がつくだけで、イメージはかなり変わります。

登校できないのっておかしいことなのではないか。
みんなができていて、なぜうちだけはできないのか。
みんなと同じようにできない子を育てた自分(親御さん)がいけないんじゃないか・・・

「不登校ですね」って言われることで、これだけの負い目を感じられる方が、まだまだいらっしゃいます。

そこで、う~ん、と思ってしまいます。

学校に行けないってこと(現象)だけで考えていないか?
なぜ? どうして? の部分まで、先入観なしに考えられているだろうか?

こう考えながら整理していったら、たとえ少数派であったとしても、「学校」という場が、その人にはあっていない、ということだって考えられる。
合わない場所に合わないからって、「不」の字をつけられるのは、おかしいんじゃないか? 

合わない場所に少しでも合わせられるようになることも、時と場合によっては必要かもしれないけれど、ひとりひとりの背景に配慮せずに十把ひとからげに否定の字をつけるのは、何だかちがうなと思うのです。
本来合わせなきゃなはずの場所が、合わせるに値しない場所、という場合だって考えられますし・・・。

そう考えたら、やはり「不登校」という言葉は、なんだか違うな、と思うのです。


そこで、ラヴニールが代わりに使っているのは、

「学校に行けない・行かない」

あれ? 「ない」は否定だよ?

・・・ハイ。正直、私の足りない脳みそでは、これが限界なのです。
しかも、置き換えたはずの文言は余計に長くなってるし! う~ん、何かいい案はないかしら。

ただ、他のフリースクールさんたちが、不登校、という文言を使っている中で、ラヴニールでは、あえて使わない! というスタイルを貫いています! この点だけ、ちょっとちがうかもしれません。

学校に行かないから、行けないから、と否定されることは、何らありません。
ゆくゆくは、学校に行こうが行くまいが、その人が選んだ道をその人が決めていけるようになればいいな、と。
これが当たり前になったときには、自然と、「不登校」なんて言葉がなくなる。そんな時代に一歩でも近づけられるよう、やっていきたいなと思います。

思うこと2017.10.18
体験談2017.10.18

■ 孤立した要因 ■

 今でこそ親同士が集ったり、そうでなくてもスマートフォンやパソコンなどで情報を集めやすくなっていますが、自分のときはまだそういったものが整っていないころの話です。
 母も学校説明などに行くぐらいには外に出てはいましたが、基本的に誰とも当たり障りなく接し、自分の意見を夫を含む他人に通そうとすることもほとんどなく、言われるのはいつも
「グチや文句をまったく言わない人」
 誰とも付き合う反面、近所に友人と呼べるような深い付き合いの人も、自分から見ていて少なかったように思います。よく言えば誰とも付き合う、悪く言えば本心が見えず何を考えているかわからない性格。
 自ら情報を収集するなどのことはなく、したがって規定などではなく内部で伝統的に言われていることは、知らなかったのだと思います。自分としても収集できればよかったのですが、何しろ大半は別の中学に行く小学校でしたので、話題の主な部分はもうひとつのB中学校がほとんど、自分が進学したA中学については話題にのぼることはほとんどありません。
 このことと重なりますが、母は他地域から嫁いできたため、地域の情報というのも知りません。祖父母には
「おじいちゃんやおばあちゃんの世代とは、事情がちがう」
との理由から、自ら尋ねることもしなかったようです。
 それなら父はと言いますと、父はそういった話題には完全に疎くて母まかせでした。文字通りの会社人間で、子どもをつれて遊びには行ってくれたのでまったく家庭の中にかかわらなかったわけではないですが、母には
「パートなんかするな、家にいればいい」
 車の免許についても
「女がそんなものを取らなくていい」
と言う人でした。進学などについて母にほとんどまかせきりにしていたくせに、なぜか高校の名前などはよく知っていて、
「お前はどこの高校に行くんだ?C校か?D校か?それともE校か?」
と尋ねては弟を悩ませていました。なぜ悩んでいたかというと、3校ともいわゆる昔から伝統のあるトップクラスのレベルにある高校で、そんな高校名をいとも簡単に口にしていました。
「お父さんは高校については何もわからない」
と自分で、しかも笑いながら言っていたとおり、高校のレベルは時代でも変動するでしょうし、本当に知らなかったのかもしれませんが、
「あれは絶対にわかって言っている」
と弟がよくグチを言っていたことを思い出します(高校だけでなく、大学も同様でした)。いわゆる名前の通った会社に勤めていた父ですので、父にとっては名前が多くの人に認知されていることが価値感を大きく占めるものでした。
 母が外に出なかったから情報を得られなかったのではないかと言いましたが、もしかするとその逆で、
「本当は母は外に出たかったのだけど、出させてもらえなかった面もあったのではないか」
とも思います。
 親戚もみな遠方で地域の事情がまったく異なるので、一意見として参考にはなっても、地域特有の生きた情報を入手する際にはかなりのマイナス点だったでしょう。

 もうひとつ情報がなかった要素として、自分が第一子であることもあるでしょう。もしこれで自分が弟の立場だったら、
「あのときはあんな感じだったから」
と、対策を立てやすかったのではないかと思います。
 こうなると、生かせる情報のない中で親は自分にどういう対応をしたか。これについては、少し後で語ります。
体験談2017.10.11

■ クラスの中で孤立する ■

 中学は、地元の公立中学へ行きました。小学校の学区が2つの中学にまたがっていて、多くの同級生が行くB中学ではない、もうひとつのA中学に行くことになりました。中学としてはこちらのほうが規模は大きくて、学年8クラス。もう少し増えたら9クラスになるぐらいでした。

 入学したその日は新しい生活になじんでいけるか不安だと思うのですが、自分の場合、さらに不安に追い討ちをかけるようなことがありました。
 同じ学校だった子がクラスにいない。周りはみな、中学に入学した途端に実際に知っているのかどうかの教師の話を始める。制服のサイズが規定に合っていればいいわけでなく、少し大きめでなければいけない、など。制服については校則でそうなっていたわけではなく、中学の中で伝統的に言われていたことで、これに反しているから校則違反、というよりは、「先輩からいじめの的にされる」という実態のない脅しのもとでのことでした。
 自分はクラスの中で浮いた存在になってしまいました。周囲は別の小学校から来た同士でかたまっていて、自分に入る余地はありません。前の席の子に声をかけるのにも、前の席の子は隣の席の子と同じ小学校だったらしく、よく話していて声をかける余裕がありません。

 そうして浮いていった自分は、次第にこんな印象で語られるようになりました。
「あの子、何もしゃべらない」
 これだけで腫れ物とか変わったもの扱い。消しゴムを貸してもらおうと勇気を振り絞って声をかけたら、くすくす笑って放り投げるように渡されました。さすがにこのときにはおかしいと感じましたが、日を重ねるごとに少しずつエスカレート。周囲の話題についていけず、何とかやっとついていけたと思った話題に対して発言すると、一瞬にして周りが退いていくのがわかりました。
 登校するときも学区の端から一人で通学。下校するときも一人。どんどん自分が取り残されていくような状態でした。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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