フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。
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■ もう一人、信頼できた人 ■
前述でB所のスタッフが信頼できたと書きましたが、実はもう一人、信頼してもいいかな、と思えた人がいました。それが、中学2、3年のときの担任でした。わずかに通った中学1年のあいだにおもしろい先生だといううわさは聞いていて、実際そのとおりでした。おもしろいというより、変わった人という言い方が近いかもしれません。家庭訪問のときの印象が、ひょろりと背が高く、のそっと歩きふらっと現れ、ぼそぼそっとしゃべる、そんな人でした。
3年生になると、高校進学を意識せざるを得なくなり(高校へはみんなが行くものなのだろうと思っていました)、時々学校に行くようになりました。私服で行って職員室の人目に触れないところにいたり、別室だったり。あれほどいやだった学校なのに、進学のためと思うとつらくはありましたが、何とか敷地内に入れました。
休み時間になると、ほんの10分ほどですが、別の教師が顔を見にきました。担任は主要教科の受け持ちだったので、授業時間中にあいている時間というのはあまりありませんでした。たまに会えると、
「何だお前、来てたのか?じゃ、俺がわざわざ家まで出向く必要はないな」
と、顔を合わせるたびに言う人でした。担任の言うことがずっと変わらなかった一方で、よく声をかけてくれた別の教師は、何度か回数を重ねるうちに何となく様子が変わってきました。
「どうしたお前、ここはどこだかわかってんのか?制服着てこい」
「ここでおとなしくしてるぐらいなら、クラスのみんなと授業を受けたらどうだ?」
とまどっていると、
「学校まで来れるんだから、制服ぐらい着てこれるだろ」
「ここまで来ておいて授業も受けずに帰るのはもったいない」
この教師も適応指導教室のスタッフのように、次から次へと課題を出すようになりました。
それでも高校に進学することにこだわっていたので、何とか学校には出向くのですが、やはり制服は着ないまま。次第に学校に足が向かなくなりました。
くどいようですが、それでもまだまだ高校に進学することへのこだわりは捨てられず、別室ながらテストを受けました(このときに制服を着て行ってました)。これまでの通知表は、評定不能と書かれただけ。せめて内申点というものがあるようにしておかないと、と受けたものの、内容がまったくわからず、選択肢のある問題で運よく答えられたり、たまたま答えがわかったりしたものが数問あった程度。ついた成績は、オール1(まだ絶対評価ではなく相対評価の時代、学年のどれだけの割合に1が、2が、と決まっていた時代です)。これじゃとてもじゃないけれど、高校に進学などできそうもありません。
通知表を見た自分の表情が明らかに変わったのでしょうか。担任がこう言いました。
「成績悪いな、と思ったか?」
尋ねられて、素直にうなずきました。
「そりゃ、オール1だもんな。今まで取ったことあるか?」
「――ないです」
「だろうな」
担任はそう言うと、
「悪いが、学年で何割をどの成績にしなきゃいけないって決まっているんだ。成績は、テストだけじゃなくて普段の授業態度や提出物なども含めて決まる。お前は、テストは受けたけど提出物を出していないのと授業を受けていないのとで、評価が難しいそうだ。テストの点だけで言うと、お前よりも悪いやつはいるんだがな」
学校に行っていないことがここでも大きく響きました。ですが、ちゃんと中身を説明してもらえたので、自分としては悪いなりに納得できました。
「そして、模擬試験、受けているよな?」
この模擬試験とは高校入試の模擬試験のことで、自宅受験だったこともありましたが、基本的に指定された場所へ行って受験していました。学校としては斡旋も否定もしないという扱いになっていましたが、それでも模擬試験の成績については何となく学校側が把握していたようです。
「その努力も認めたいところなんだが――、すまんな」
「いえ、テストしか受けていないことは事実だし」
そう言って自分がうつむいたように見えたのでしょうか。
「落ち込んだか?」
「――いえ。その――、やっぱり学校に行かないと、高校進学は無理なんですよね。無理なら無理って言ってもらったほうが、すっきりするので」
現実を突きつけられる怖さはあったけれど、この際言うならきっぱり言ってもらったほうがいいかなと思いました。
担任は、
「無理して学校に来る必要はないんだぞ」
と、自分の顔をじっと見て言いました。一瞬何を言ったのかと思いました。まさか学校の先生自身が「無理して学校に来る必要はない」と言うとは思いませんでした。あっけにとられてしまい何も言えないでいると、担任が続けて言いました。
「学校に来てつらくなるんなら、無理して来るな。本音を言うと毎日のように顔を見れることがうれしいが、こうしてときどき会ってお前の顔を見れるのなら、まずはそれでいい。学校に来たときのお前は、どこか張り詰めたような顔をしているぞ」
「そ、そんなつもりはないんですけど」
と言った顔が笑ったように見えたのか、
「そうやって笑っていられれば、それでいい」
と、自分の心配をよそに言いきる担任に、またまた驚いてしまいました。
何かを相談するまでに心を通わせるほどではありませんでしたが、この人の言葉があったので気が楽になったことも確かです。でもやっぱりみんなが高校に行くのだから、自分も高校に行かなきゃとどこかで追い込み続けていました。
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■ 当事者の視点 ■
今改めて思うと、なぜB所のスタッフは信頼できて、適応指導教室のスタッフや自分の親に対しては信頼を置けなかったのか、わかる気がします。
適応指導教室は「学校に行けるようになること」に重きを置いていたので、スタッフも課題をこなすことに対しては一生懸命でした。次の課題がなかなかできない子や前はできた課題ができなくなった子に対しては、
「ほら、前はがんばれたんだから、これもできるでしょ?」
と当たり前のように言い、どうして課題をこなせないのか、こなしにくいのか、こなせなくなったのかを尋ねてくれません。課題をこなすことに一生懸命だったため、何気なく始まった会話ならともかく、こちらから他愛もない話をしてもいいものかどうか、とまどうことがありました。課題とは関係ない話をしたら、適応指導教室のスタッフの手を煩わせることになるのでは、と思えて。
自分の親も同様に、こちらが相談できたとしても、
「それならさ、こうしてみたら?」
と提案をしてはくれるものの、自分としては問題と感じていない部分についての提案で、問題そのものをすりかえられたような気分になっていました(これは主に父に対して)。そうじゃなくて、と、自分として困っていることをもう一度繰り返すと、
「同じことを繰り返すな」
「くどい」
「こっちは親切に提案してやっているのに」
と言われて終わり。自分として何の解決にもなりませんでした。問題点がちがうということに気づいてほしくて何度も同じようにしていると、
「お前は何度も同じことを繰り返す。そこがいけないところだ」
と言われ、こちらが抱えている問題の本質に気づいてもらえません。
母が「みんなと一緒」にこだわったのも、推測ではありますが、「みんなと一緒に行動するほうがあれこれ気を揉まずにすむから」だったかもしれません。一人留守番をさせて何かあったら、という気持ちがあったとしたら、何としてでも一緒に行動をさせたほうが、気を揉む要素が減るわけですし、楽です。自分の考えに従わせることができた、という優越感にも浸れるでしょう。とはいえ、こちらだって中学生だったのです。一人で留守番できない年齢でもありません。
そうでなくても、ちゃんと一緒に行動させたい理由を言ってもらえたなら、こちらだって納得できたかもしれません。
「一人留守番させておいて何かあったらと思うと不安だから」
でもいいのです。ちゃんとした理由もなく自分の考えだけを押し通されようとしたのですから、こちらとしても一度反発心を持ったなら、徹底的に反発するしかありません。
では、なぜB所のスタッフは信頼できたかというと、親とのかかわりは最初の面談以外は電話越しのみでほとんどなく、意思の確認もすべて自分中心だったことです。毎月の定例会に出席するかどうかは、スタッフから参加確認の電話が家にかかってきましたが、必ず自分の口から、参加するかどうかを答えていました。スタッフが必ず、電話の向こうで自分にかわるように要求したようです。そして立場や肩書き、自分より上の学歴を有する相手には弱く、相手に嫌われぬよう当たり障りなく接する母ですから、相手に逆らうことはしません。
適応指導教室や両親は視点を学校に行くことや周囲と同調すること、自分の思い通りに向けることに置いていて、それは「個人を周囲にすり合わせる」です。周囲が基準となっているので、基準と反することや自身の思うことに反することがあったらお構いなしに鼓舞するし、批判する。
一方でB所では自分個人の視点を尊重してくれる。ここでひとつ言っておくと、相手を尊重するとは、相手の言うことを何でも聞くというわけではなく、「相手の意見や考え、思考を大事にすること」だと思います。B所のスタッフは、まだ中学生の自分でも、意見があったならそれを「年下なんだから我慢しろ」などの理由なく一意見として大事にしてくれ、あるときはできるだけかなえられないかと一生懸命になってくれました。その考えに至った背景について丁寧に聞いてくれ、それがかなえられそうになかったり無謀だなというときには、どんな理由でかなえられないかや、無謀だと感じた理由を、自分の意見がおかしいと言うことなく、B所のスタッフ自身の言葉で伝えてくれました。こういったように視点が「個人から個人に合わせる」でした。あくまで基準は個人という視点であり、個人のものであるから視点が別々で当たり前。適応指導教室や両親とは、まったく逆の視点でした。
また、不思議と、B所のスタッフには、威厳のようなものを感じることがありませんでした。両親、祖父母、適応指導教室のスタッフなどには、その威厳を感じて、相手が何を期待しているのかを読み取って答えなければいけない、と思っていました。選択肢に「わからない」はありませんでした。
B所のスタッフには、失礼かもしれませんが、そういった威厳はまったくなく、年齢や学歴など、自分よりも上なのに、なんだか対等か、対等に近いぐらいの存在に感じられました。だから何でも話せたし、わからないならわからないとも答えることができたし、親でもないし友人でもない、恩師でもない、でも頼れる人、という、本当に不思議な存在でした。
■ みんなと一緒 ■
その日は公立の学校は代休か何かで休みで、弟も家にいました。昼、母が提案してきました。
「散歩がてらお昼を近くに食べに行こう」
長期休みは例外ですが、理由のある平日の休みであっても昼間に出かけることで周囲の視線を感じてしまい、自分はできるだけ昼間は出かけいないと決めていました。弟は逆らわずに支度を始めましたが、自分は支度をしませんでした。
「ほら、出かけるって言ってるでしょ?早く支度しなさい」
「いやだ、行かない」
そう言ったらどう言われるかはわかっていましたが、行きたくないものは行きたくないのです。自分の気持ちを口にしました。
もうひとつ、行きたくない理由がありました。このところやたらと、母は外に出ようと誘ってくるのです。「最近やたらと誘ってくるけど、これは何かあるに違いない」と、ウラを勘繰っていいました。実際、日程的に合うかどうかは定かではないのですが、例によってだいぶ後になってから母のノートを見たら、
「外に気が向くようになったことをF先生に話したら、積極的に外に出かけることを誘ってみては、と言われた。今度散歩にでも誘ってみよう」
と書いてありました。
当時もウラを勘繰って警戒心を強くしていたので、ますます従うものか、と思いました。
「みんなで出かけるんだから、支度しなさいって言ってるでしょ」
行きたくないのなら留守番だっていいじゃないか、と思いました。電話番ぐらいならするのに。それでも母は、みんなで出かけることにこだわり、行かないことを許してくれません。
「なんでみんなと同じことができないの!」
挙句の果てに、母はこう言いました。
「ほんっとに協調性のない子!適応指導教室の先生もあきれるわけだよね」
いつも「協調性のない子」が母の最後の切り札でした。さらに自分が知った人の名前を付け加えれば、威力倍増です。
自分としては適応指導教室でみんなと一緒にやることはやっていたつもりでした。自分が参加している一方で、みんなと一緒にしなければいけないことでも参加しない子がいたことは事実ですが、自分は参加しなかったことってあったっけ?と思い返してみても、思い当たりません。適応指導教室では和を乱すようなことをした覚えはありません。
協調性というのがみんなと同じようにすることだとしたら、適応指導教室での自分の姿のどこに協調性がない要素があるんだろうと思う一方、今の状態でまだ協調性がないと言われる状態なら、もっとみんなと同じようにしなきゃいけないのかとも思えて、これ以上どうすればいいんだろうと思いました。
また、適応指導教室のスタッフは普段はにこにこしながら、中では自分のことをそんな目で見ていたんだと思うと、適応指導教室のスタッフに対しての信頼感が一気になくなりました(これについては単に母のハッタリであった可能性があり、本当に適応指導教室のスタッフがそう言っていたのかの真意は確かめていません)。
これ以上みんなと同じようになんてどうすればできるのかわからなかったし、適応指導教室のスタッフに対しては信頼感をなくすしで、ショックが大きく、気がついたら部屋の入り口に立っていた母を押しのけて部屋のドアを勢いよく閉めていました。当然母は部屋のドアを強引に開けようとしてきましたが、今度ばかりは無理です。閉まったドアの内側に自分が座り、思いきりドアに体重をかけるようにしていたので、ストーブよりも容易には動きません。
その後母と弟がどうしたかは覚えていませんが、悔しくて泣いているうちに、どうやら部屋の入り口でそのまま寝てしまったようでした。暗いままの部屋で目が覚めたら夕食後で、父が帰ってきているらしいことはわかりましたが、部屋のドアを閉めた状態にしたまま、寝たふりをして過ごしました。みんなが寝静まったあと、部屋に電話の子機をそっと持ち込み、思いきりB所のスタッフにグチをはきまくったことは、言うまでもありません。グチを一方的にはくだけですっきりし、翌朝からは何事もなかったようなふりをして家族と接することができたのは、幸いでした。
■ 頼ってみてもいいかもしれない ■
適応指導教室は課題をこなすことがよしとされる部分があり、この課題をこなすことに困難を感じていた自分は、次第に通う日数を減らすようになりました。その代わり月に1回程度の開催だったB所には毎回行っていました。こちらのほうが自分にとって楽しい場所でした。
前にも書いたとおり、そこでは本当にくだらない話で盛り上がったり、他には迷惑のかからない程度のふざけたこともやりました。鍋パーティーのときに水炊きの鍋に差し入れのお菓子や甘納豆を入れた人がいて、罰ゲーム的に誰が食べるか?なんて言っていたら、誰も気づかずにおいしく食べていた、なんてこともありました。
こんな小さく羽目を外すことでさえ、自分にとっては楽しいと思えました。家でやろうものなら、家族の和を乱したとしてどれだけの罵声で責められるかわかりません。ちょっとした冒険やはみ出しが許容される雰囲気が、自分にとっては心地よかったです。他、前述の繰り返しになりますが、夜更かしができること、親元から離れられること、どんな話題でも聞いてくれるスタッフ――、この場所が本当にありがたかったです。
中学2年も終わるあるころ、「そろそろ勉強のことも考えなきゃな」と口にしてしまいました。自分としても深く考えていたつもりではありません。ただ、まわりが高校に行くのだから自分も行かなければいけないのだろうな、というぐらいにしか考えていませんでした。中学に行けないのだから高校に行けるわけがないと思いながらも、もし3年生になって勉強をがんばれば、まだ進学の可能性もあるかもしれないと、どこかで考えていました。
何気なく言ったことなのに、たまたま一緒にしゃべっていたスタッフは、それを聞き逃しませんでした。恐らくスタッフから根掘り葉掘り聞かれたはずで、「尋ねられたら答えなきゃ」と思ったことも事実です。だけど、親に尋ねられるような威圧感はまったくなく、「言いたくない」という気持ちには、不思議となりませんでした。よくわからないと答えても、わからないことはわからないとして受け止めてくれました。家だったら、そうはいかなかったでしょう。「自分のことでしょ?そのぐらいわからないの?」と言われ、なんとしてでも答えを要求されたと思います。
話す中で自分として気がついたことがありました。言葉にすることで気持ちを整理することができるというのを初めて感じたときかもしれません。
・自分としては勉強はしたい。だけど、その方法がよくわかっていない。
・普通の塾に行くのはいやだ。周りは普通に学校に行っている子ばかりだから。
・だから、1対1で教えてもらえる塾か家庭教師がいい。
・学校に行っていないという事情をわかってくれる人がいい。可能ならB所のスタッフ。
適応指導教室もそうですが、B所でも、スタッフは参加者とのプライベートな付き合いはしない、というルールがありました。あくまでB所の中での関係を守る観点から、B所のスタッフが家庭教師となるのは難しいけれど、誰か知り合いを探してみることはできる、と言われました(実際B所のスタッフには、家庭教師のアルバイトをしている人も多くいました)。
結局B所のスタッフづての家庭教師は、相性がうまく合わなかったこともあって教えてもらうことはなかったのですが、それでも、B所のスタッフはこれまで接してきた人たちと何かがちがうなと思えました。
「この人たちになら、何かを相談してもいいかもしれない」
初めて、自分の心を曝け出してもいいと思える人に出会えました。
それからは、プライベートな付き合いはしないというルールがあったにもかかわらず、何か悩みごとができたなら、夜遅くにつかまるスタッフというスタッフに電話をかけて、相談していました。まだ携帯電話のない時代、みんなが寝静まったころを見計らって電話の子機を部屋に持ち込み、ドアを閉めて、長いときは1時間ぐらい付き合ってもらったでしょうか。深夜だから、親にドアを開けておくよう強要されることもありません。内容は主に親へのグチ。延々とグチを言っていたことは覚えているのですが、振り返ってみて、相手から何かアドバイスをもらったっけ? と思い返してみても、何も思い当たりません。
あのときがなかったら、自分は今でも他人に対して心を開かず、人を信じられないままだったと思います。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
Webサイト:
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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