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フリースクール「ラヴニール」の日常と、その他イベントのお知らせ・ご報告。他にはフリースクールとは? 学校に行かないあいだに何があった? などの連載をしています。 Posting of comments like the following will be declined: ・Comments other than Japanese. ・Comments that seems to be in Japanese through translation website.
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体験談2018.1.31

■ 母方の親戚 ■

 母には、妙なこだわりがありました。「人に言われたことはかたくなに守る」。あまりにもそれが理不尽だと文句を言うくせに、いざその指示をしてきた人を目の前にすると、その文句をぶつけることなく、普段どおりのふりをしてすごすのです。後に親戚の葬儀の席で、その親戚からはかなり理不尽なことを言われていたと聞かされました。自分としては、いまさら親戚のことをそんなふうに言うのだと、少し悲しくなりました。
 その言われていた理不尽なことが、「自分も思うように実家に帰ることができなかったんだから、あなたも実家に帰ってはいけない」でした。
 夏休みには、母、自分、弟で母方の祖父母の家に遊びに行ったことはありますが、夏休み以外に帰省した覚えはないし、父が一緒に行った覚えはありません。
 本当かどうかはわかりませんが、さらに自分が学校に行かなくなってからは、こうも言われていたようです。
「自分の子どもが学校に行かないのよ? 子育てもうまくできない人が実家に帰るだなんて、そんな権利ないに決まっているでしょ」
 こういった理不尽な理由をつけられて、様々な制約をつけられていたようでした。そして母は、それをかたくなに守っていたのです。かたくなに守っていたと言うよりは、「お前はダメなやつだ」と否定され、どうにも太刀打ちできなかったのかもしれません。

 このような状態でしたので、母方の親戚とはたまにしか会えませんでした。ただ、この「たまにしか会えない距離感」が、救いだったのも事実です。
 祖父母が遠方に住む親戚のところに泊まりがけで出かけるあいだに、母方の祖父が立ち寄ったことがありました。学校のある平日のことでした。ですが、自分は学校には行っていません。
「ヒロね、学校に行っていなくて。その代わりの場所に行っていて――」
と母が打ち明けたとき、母方の祖父からかえってきた反応は、
「そうなのか」
 このたったひとことだったそうです。
 その後遊びに来たときも、祖父は自分に、
「ま、じいちゃんも、大人になってから高校に行ったぐらいだしな。昼間働いて、そのあと学校に行った」
「そうなの?」
「じいちゃんたちのときは、戦争中でまともに勉強できんかったからな。だから大人になって働きながら、夜になって高校に行くって人も案外いた。ヒロも、今は勉強できなくても、そのうちちゃんと勉強できるようになるぞ」
 ちょっと筋がそれたような気はしましたが、母が打ち明けたときの第一声、「そうなのか」は、自分には、「へえ、それで? だからどうした?」と言われたように感じられました。学校に行っていないことで「そりゃ大変だ!」と大騒ぎされず、学校に行っていようがいなかろうが、ヒロはヒロだろ? と言ってもらえた気がして。

 二人とも成人してからですが、母方の祖父のところには、母なしで、弟と一緒に遊びに行ったことがあります。弟と二人でも案外何とかなるとわかってから、何度も行かせてもらいました。そのぐらい、自分たちきょうだいにとって、母方の祖父との距離感はちょうどいいものだったんだと思います。
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ラヴニールの代表である私は、現在子育て真っ最中でもあります。日々成長する我が子とのかかわりの中で、「そっか、こういうことなんだ」と、すっと腑に落ちたというか、そんな経験がありました。

フリースクールに関わる私たちだけではなく、様々な支援的なかかわりをしている者同士、「信じて待つ」ということで時には議論になることがあります。

いつまでも待っているだけじゃなくて、何かアプローチをしていかないと、いつまでも状況は変わらないんじゃないか。
こちらが何かするのは、相手をそれだけ信頼していないってことになるんじゃないか。

どれだけ「信じる」べきか。
どのぐらい「待つ」べきか。

時に極端に「する・しない」の対立が起こり、選択肢が2択しかない、そんな状況が生じることもあります。



さて、「すっと腑に落ちた」話の本題。

先日、子どもが洗たくカゴの中におもちゃを落としました。洗たくカゴの高さは、子どもの腰よりも少し高いぐらい。手を伸ばしておもちゃを取ろうとするも、届きません。
 
私は、さて、ここでどうするんだろう? って、ほぼ興味本位で、我が子を観察することにしました。同時に、我が子の次の行動を想像してみました。
私の頭には私か夫を呼ぶか、一生懸命取ろうとしてる姿をアピールして「取って♪」の、どちらかかな、と思っていました。
 
すると、我が子は。
 
まず洗たくカゴを倒し、カゴの中にあった洗たくネットをよけて、落としたおもちゃ以外はすっかりからっぽになったカゴの中に体ごともぐるように手を伸ばし、見事におもちゃゲット。
思わず、
「うわ~、頭いい!」
と言ってしまいました。

私は、「我が子は誰かに頼る」ことしか考えていませんでした。それを欺くかのように、我が子は自分ひとりでおもちゃを拾って見せた。本当に、見事に裏切られた感じです。
 
そのときふと、思いました。

もしかして我が子は、私が思っている以上にいろいろできるのかもしれない。
もちろん、「我が子が自分でできるように」と何もかもほったらかしにしておけ、というわけじゃなくて、我が子から何かしら要求があればそれに応えるのも大事だと思います(今回も助けを求めるようであれば、おもちゃを拾うつもりでした)。
 
一方で、「どうせこの子にはできないだろうから」と、何もかも手を出しすぎていやしないか、とも思いました。 
感じたことをうまく文章として表現するのは難しいですが、「信じて待つ」って、もしかして、今あったできごとみたいなことなのではないか、と。そしてその結果が自分の思っていたのとは異なっても尊重することなのではないか、と。

(「尊重してはいけない考えや行動」もあるかとは思いますが(たとえば犯罪性のあるものなど)、ここでは度外視します)


「信じて待つ」のは、言葉以上にもっと深いものがあるとは思いますが、その一端を、頭ではなく体で理解できたような気がしました。


子どもから学ぶ。本当にそうだな、と。
頭でのみ理解した「つもりになっていた」ことが、つながったように思いました。
いやぁ、今朝は寒かった! ラヴニールの室内、いちばん気温が低いところでは、室温8℃でした。
今日はストーブとコタツの両使い必須です。

玄関の軒下には、大阪では珍しいような気がする、こんなコができていました。

つらら2018.1.25

記念に撮影後、すぐに落としてしまいましたが、それだけ寒かった証拠ですね☆
体験談2018.1.24

■ では親は、というと ■

 自分としてはこの場所(前回記事の適応指導教室)に週に数日であったり、調子がよければ毎日通ったりしました。母も月に1度か2度、この場所で自分の担当とは別の人と面談を続けていました。まったく別の部屋に分けられるので、何を話していたのかはわかりません。
 だいぶあとの話ですが、母が大掃除をしたときに捨ててあった小さなノートがありました。紙ばかりのゴミ袋の中に入っており、ノートの表紙に書かれていた日付が、ちょうど自分が学校に行けなかったとき。これは何かあるかも、と思って、母の目を盗んでこっそり抜き取りました。
 こっそりのぞいてみると、どうやら、内容は通っていた場所主導で講演があったときのメモや、面談のときの内容のようです。母は母で、かなりの重圧だったにちがいないと、今では思います。

○月×日
 小さいころの出生の状況や家族構成などを尋ねられた。

○月×日
 中学生になったAちゃんが、中学進学と同時に学校に戻ったそうだ。行く前にお腹が痛くなるそうだけど、毎日薬を飲みながら、がんばって通っているとのこと。F先生(注、適応指導教室の、母の担当)から聞いた。ヒロも少しがんばれば通えるようになると思うのに、本人からはなかなかその気が見られない。いつまで学校に行かないつもりでいるのか。

○月×日
 母(注、おそらく祖母)から言われる。こっちとしては努力しているし、今は学校に行くよう激しく言ってはいけないと言われているのに、早く学校に行かせろと急かされる。

○月×日
 義姉のところのBくんが、C大学に合格したそうだ。それを夫と母が自慢げに話してくる。うちは、学校にさえも行けない子どもがいる。自分が劣っているように言われている気がした。

 自分が学校に行っていないことが母を苦しめているとわかりました。そうはわかっても行けないものは行けない。行きたいと思っても行けないのです。
 自分ができないことを自分の弟はできているのに、どうして自分にはできないのだろう?
 できないものはできない。あきらめているとかわけじゃない。やろうとしてもできないんだ。
 などの自問自答をしていたことを覚えています。自問自答が続く一方で、逃げのような自問自答もしていました。
「小さいころから甘やかされたんじゃない?ほら、母にも言われたじゃん、『おばあちゃん子で育った子は、何に対しても人の顔色を伺うようになる』って」
 自分は、すぐ下に弟ができたときに祖母に面倒を見てもらうことが多かったようです。ただこれが、人の顔色を伺うことと何の関連があるのでしょうか。そのような統計の結果があるなら知りたいぐらいだ。――と言えるのは、もちろん今だからであって、幼少のころや学校に行けなかった当時は、実際に何でもできばえを親に確かめてもらっていました。何でも一度親にチェックしてもらわなきゃ、親の審査を通らなきゃといけないと思っていました。日常的な宿題でさえ、前述のとおり母の採点の名のもとチェックされていたぐらいですから、むしろこれはおばあちゃん子だったからというよりは、母の影響ではないのかと、今では責任転嫁にあたると承知のうえで、思っています。
 しかし当時は自分のクセをズバリと言われたことで「ああ、自分はおばあちゃん子なんだ」「おばあちゃんに甘やかされて育ったんだ」と、どこかで納得もしましたが、後者についてはすぐに否定しました。祖母に甘やかされたという気持ちはありません。祖母が自分からの要求に応えることを、他人の視点で「甘やかした」と言うことはできるかもしれませんが、いつもいつも自分の要求に応えてもらっていたというわけではなく、逆に諭されることもあったので、甘やかされたわけではないと思います。

 親も親で苦しんでいたことには気づけましたが、当時その悩みを相談していたのは、行っていた場所のスタッフ(ノートのF先生)。かなり年のいった人でした。後で知ったことですが、F先生が自分の親の担当をしていたという子から、F先生がもともとは学校の先生で、少しでも学校に戻れる可能性のある子の親に対しては、最初は無理をさせるなと言いながらも、子どもが少しでも学校に対して興味を持ち出すと、急に人が変わったように強く学校に行くように勧められていたそうです。
 相談した相手から言われ、目の前の自分は思うようには動かず、そして元来内気なほうの母は、誰にも思うように相談できなかったことでしょう。今思うと、母は誰ともどこともつながれず(つながっていたとしても、自分を追い込むような人・場所がほとんどだったのではないかと考えられます)、それでよく何事もなかったかのように生きているなと思います。
 いえ、何事もなかったかのように、装っているだけなのかもしれませんが。
体験談2018.1.17

■ 学校に行けるようになるなら何でもする ■

 あせっても何もできなくて、何もできないけれど遅れていくのは事実で、どうすることもできないなか、担任がたまに自宅に来ていました。母は自分を担任に会わせようとしましたが、担任が無理に会わせなくてもいい、と言ったことが通じたのか、こちらから会いたいと言わない限りは会うことはありませんでした。
 その担任から、通っているうちに学校に行けるようになる場所のことを聞きました(後述の余談)。「どんなにつらくても我慢して笑顔で学校に通えるようになります」と、説明の資料には書かれており、何としてでも学校に行けるようにならなくてはいけないと思っていた自分には、とても魅力的な場所に感じられました。早速申し込み、数ヶ月待った後何度かの面接を経て、ようやく通うことが決まりました。

 そこに通うには公共交通機関を利用するしかありませんでした。親が送迎をしてもかまわなかったのですが、母は送迎のためだけに特定の場所を往復するのは無理ということで、自分だけで通った日もあります。親が一緒だったのは最初のうちで、次第に、その場所でできた友人と通うようになりました。
 親が一緒ならまだちがったと思うのですが、周囲の視線が突き刺さるように感じられました。その場所に向かう時間帯は、通勤通学ラッシュがひと段落ついたころ。自分は制服ではなく、私服。たとえ大人びた格好をしていたとしても、所詮子どもは子ども。
「この時間になぜ子どもが?しかも私服で?」
と思われているのではないかと。
 一度のみなら「病院に通っています」と言えるけれど、同じような時間帯の交通機関を利用するので、顔を合わせる乗客もだいたい同じ。これも、もし学校に通っていれば感じるものではありません。周囲の視線は学校に行かない自分への罰だと思いました。
 それでも、こういった難点を我慢してその場所へ通えば、またいずれ学校に行けるようになるんだと信じて、できるだけ通いました。ですが、いつまで経っても通えるようになりません。その場所のスタッフからはひとつひとつ課題を出されました。

朝起きて、夜に寝る。
  これはすでにクリアしています。
  
決められたときに決められたことをする。
  いやではありません。
  
外に出かける。
  いやではありません。ただし、時間限定ですが。

 その次からが難関でした。

制服を着てみる。
  見るのもいやです。
  
私服でもいいから学校の前まで行ってみる。
  これも、学校自体見るのもいやです。
  
同じく、学校の中に入ってみる。
  見るのがいやなのに、どうやって入ることができるでしょうか。
  
同じく、学校の誰かに会う。先生が望ましい。
  家庭訪問に来た担任にも会っていないのに。
 
 以下、制服を着て学校に行き誰かに会うこと。授業をひとつ受けてみること、などの段階を踏んだ課題がありました。この課題をひとつずつこなしていけば学校に行けるようになる、と。そんなことがありうるのだろうかと思いましたが、学校に行くためにはこれらをこなせないといつまで経っても行けないままで、一方でこなすのには相応の勇気が必要で、学校に行けるようになることは自分にとってはハードルの高いものでした。

 この場所でで出会った友達と仲良くなりました。今でも数人とはたまに連絡を取りあっています。課題さえなければ、ここは絶好の場所だったと思います。しかしそううまくはいかず、たまに担当指導員との面談があって、この課題のどこまでクリアできているか・できていないかを突きつけられます。長い休みの前後には、学校に行くことへの挑戦を強いられます(チャレンジウィークと呼ばれていました)。
 一方で忠実に課題をこなし、チャレンジウィークにも学校に制服で行き、通知表を受け取ってくる子もいて、その子のことをうらやましく思ったのも事実です。逆に、夜起きて朝に寝る、課題面でいえば後退する子もいて、その子のことを冷たい目で見つつも、昼夜逆転できるのがうらやましいと思っていました。

余 談

 どうやら自分が行っていた場所は、適応指導教室と呼ばれる場所だったようです。適応指導教室といっても全国規模で見ればいろいろで、自分が行っていたところは市の施設でした。中には民間委託という形だったり、もっと小さな行政単位で開催されている場所もあるようです。その場所によって内容もちがってくるとは思いますが、自分が行っていたところは、段階を踏んで課題を出され、最終目標は学校に復帰することに設定された場所でした。学校には戻らないと頑なに拒む子もいたので、そういった子には不向きな場所だったかもしれません。
プロフィール
HN:
フリースクール「ラヴニール」
年齢:
14
性別:
非公開
誕生日:
2010/04/01
自己紹介:
2010年4月より大阪市にて活動をしているフリースクールです。日常の様子、思うことなどを更新しています。過去には、学校に行かなかった体験談、フリースクールって何なん? も、連載していました(カテゴリ分けしてあります)。
 
ブログ投稿者:
代表と、スタッフ1名で担当しています。
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